何かが変わり始める

英語・イタリア語・簿記

去年の10月「語学学習の沼でモヤモヤするのは嫌だ」という思いから目標を立てた。2020年中に英語検定の1級と、イタリア語検定の2級を取得することだ。

自分の力がわかれば漠然とした「語学を続けなくてはならない」という思いを自分から切り離すことができると思ったからだ。

この1年間、今まで通りのラジオ講座に加えて、暇を見ては検定用の勉強を続けてきた。緊急事態宣言の頃、英語では手ごたえを感じ始めていたが、イタリア語は目標とするレベルからは程遠いと感じ始めていた。

在宅勤務に変わり、時間は余裕があるはずなのに、思ったように行おうと決めていたことができなかった。今まで「時間がない」という言い訳で済ましていたことが、時間があってもできないことが明らかになるにつれ、私の心は疲弊していった。

そして、5月のある日「モヤモヤMAX」な状態になった。

今まで体験したことのない心情に焦ったし、このままではモヤモヤ解消どころか心が壊れてしまうと感じた。

しばらく「~しなければならない」という事柄から離れ自分を見つめなおしてみた。次第に心が落ち着いてきた。自分は何を求めてきたのだろうか。効率よくたくさんのことをこなせば心は満足すると思っていた。

しかし、案外、効率を求めて詰め込もうとしている時は入っていかないものだ。私はもっと物事をゆるく考えることにした。「生きていればいいじゃないか」そんな独り言を何度もつぶやいた。

イタリア語が難しいと思ったら、目標を変えた。簿記が決してやさしいわけではないが、3級なら100時間で到達できると聞いた。私がイタリア語の3級を取るまでに、何百時間勉強したのだろうか。覚えては忘れ、しばらく間が空き、再開してまたやめて、そんなことを繰り返してきた。

8月に英検の2次試験で失敗し、その後の2か月は必死で過ごしてきた。家に帰ればモデルスピーチの音読をし、食後は寝落ちするまで簿記の動画を見る。そのような生活が続いた。

しかし、以前のような「~ねばならない」と圧迫感はそれほど強くなかった。「ダメならまた受ければいい」そんな気持ちが強かった。これは、私の中での大きな変化だと思う。失敗を恐れる気持ちから、失敗も学びのきっかけだと思える気持ちへと変化している。

11月に二つの試験を受けて、幸いなことにどちらにも合格することができた。英検1級と日商簿記3級。ブログを書き始めた1年半前には想像できなかった資格を持っている私がいる。

何かを得て何かを捨てる

英検1級を取得して私の語学の部分でのモヤモヤは無くなったのであろうか。ことはそれ程簡単ではない。相変わらず新聞を読んでもわからない記事は多くあるし、話をしていても言いたいことが言えなくてもどかしい思いをする。

そして「1級取ったのにこの程度か」という考えがもどかしさに拍車をかける。それではモヤモヤは増えているのかと言えば、そうとは言えない。

これが当初の予定通り、英検1級ととイタリア語2級の同時合格ならモヤモヤは増えていたと思う。私にとって母語は日本語であり、母語と同様にそれらの言葉が使えない限り、私のモヤモヤは無くならなかったであろう。つまり私は無謀な夢を見ていたのだ。

私にとって幸いだったのは、イタリア語の代わりに勉強をしたのが簿記であった点だ。この資格を学んだおかげで、私は当初の目的を達成しなかったにも関わらず、それほどモヤモヤしていない。

日商3級は簿記の入り口ではあるが、その入り口の一番最初に学ぶこと、つまり「仕訳」という考え方が今の私を救ってくれている。

複式簿記ではある1つの取引に対して常に最低2つの、それを説明する言葉が存在する。「ある現象が借方、貸方、そのどちらかにしか当てはまらない」そんなことは簿記の世界では存在しない。同じことが両方の世界で表現を変えて語られているのが簿記である。

この単純なことを学んだ時、私は即座にそれを自分の人生に当てはめてみた。私がモヤモヤを感じる時、その反対側にあるものは何であろう。「時間が無くて語学ができない」と悩んでいる時、その反対側には「語学ができなくても生活できている」という勘定科目が存在している。

私が日々感じてきた様々なモヤモヤにも、必ずそれらと対を成すものが存在していたはずだ。私は、それらが何か見えなかったし、見る訓練をしていなかったから「負債」や「費用」ばかりを受け取っていたのかもしれない。

何かを得れば何かを捨てているし、何かを捨てることで何かを得ている。実は人生はとても単純な法則の上に乗っかているのかもしれない、私はそのように感じた。

次はどうしよう?

簿記の基本原理が予想以上に私の人生観に影響を与えることになった。そのため、もっと先の世界を見てみたいという気持ちにもなる。即ち、「これからまた勉強を続けて、2級、1級と受験していきたい」そんな思いだ。

「3級でこれほどの学びがあったのだから、更に上に行けば…」という期待が高まるが、今のところは簿記から少し離れてみようと思っている。

今回簿記から学んだように、何かを得れば何かを捨てていることになるのだ。簿記を続ければ、その陰で別のことをあきらめることになる。

私はこれからの人生を想像してみた。オーストラリアに帰った童君を訪問して、ついでに大陸横断の旅をしている私がいる。1年に1度、マンスリーマンションを借りて、イタリアに滞在している妻と私の姿がある。鉄道と自転車を使って台湾の隅々まで訪問し、それをブログの記事にしている私がいる。

いずれも語学を軸に魅力的な人生が展開している。やはり私にとって語学は常に行っているべき存在である。

しかし、全てを行うことはできない。今までそれを行おうとし、その強欲さが私を苦しめてきた。決断をしなければならない。物事はもっと単純に考えたほうがよい。

私は、まず台湾語の学習を中止することにした。台湾への思いはある。しかし「今」ではない。自由に彼の地を旅行できる状態を作ることを考えていく。台湾語はその時、現地で行えばよい。

語学に関してはイタリア語の検定を中心に、英語は楽しむ程度にやっていこう、そう思っている。もともとラテン系のイタリア語とラテン語ルールの語彙を大量に含む英語の学習は、相互補助的な関係である。両方行うことでそれぞれの語、特に英語の構造が明らかになる。

語学以外のことも考えた。

私は、妻に私用のTV番組の予約をすべてキャンセルするように言った。気の利く私の妻は鉄道・語学といった、私の興味ありそうな分野の番組を撮ってくれていたのだ。

これらも見れば楽しいが、代わりに捨ててしまっていることも多くある。私はTVを見ないことで手にするものを求めて行こうと決断をした。

楽しみだったシャツへのアイロンがけも妻へお願いすることにした。もともと妻の方が「私がする」と言っていたものを私が取り上げていたのだ。皺を伸ばす楽しみは減るが、素直に妻に感謝の気持ちを伝えてお互いにとって良い関係を続けていこうと思う。

今まで苦痛に感じていた「何かを手放すこと」が、それほど苦でもなくなってきた。それは、手放しながら同時に「何かを得ている」ということに気が付いたからかもしれない。

私の中で、何かが変わり始めてきていると思う。自分の、この感覚を頼りに進み続けて行きたい。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。