「面倒くささ」という魅力

相撲上げ・相撲ロス

まさかこんな自分になるとは思ってもいませんでした。一年に6回、気持ちが高揚したり、落ち込んだり。タイトルにある通り「相撲上げ・相撲ロス」を感じながら生活しています。

若き日の私は、相撲の良さが全く理解できない人間でした。むしろ「何が面白いのかよく分からない」とさえ思っていました。異常に太った変な髪形をした男たちが、ほぼ裸でケツを見せながら土俵で押し合い倒し合う、そんな姿を見てどうして興奮するのか不思議でした。

周りの友達と比べて大分遅いのですが、私も大学生になってプロレスを楽しめるようになりました。プロレスの持つ「うさん臭さ」の魅力に目覚め、そこで展開される様々な人間模様や大人の事情、ファンとの絡みを込みで、人生を投影できるようになったからです。

時には物理の法則を無視するかのようなレスラーの動きを見ても、私は単純にそこで展開される物語に感動するようなマインドを持つことができました。武藤敬司、新崎人生、永源遥、ヒロ斎藤、それらの選手が大好きでした。

ボクシングや柔道などの格闘技好きがプロレスを純粋に楽しめるようになるためには、超えるべき心の壁が存在すると思います。実はプロレスを表面上ではなく心の底から味わうためには、人生経験と成熟が必要なのです。

「目の前で起きている現象の意味はそれを見るものの認知能力が作り出す」という現象学的な物の見方を獲得することで、私はプロレスを味わうことができました。そして、私にとってそれが大相撲に変わるためには更なる人生経験と成熟が必要でした。

今から3~4年前、ちょうど稀勢の里の綱取りが期待されていたころだと記憶していますが、私は相撲を楽しめるようになりました。そして、それは相撲の持つ「面倒くささ」という魅力に気付いたからでもあります。

面倒くささ

私は、人にどうして相撲が好きなのかと聞かれたとき、大抵「面倒くささが魅力です」と答えます。そうなんです、面倒くさいんです、大相撲は。しかも他の競技と比べて群を抜いて、圧倒的に面倒くさいと思います。

相撲に関わる数多くの現象がある中で、人々が一番注目する場面はどこなのでしょうか。それは当然土俵の上で勝負がつく場面です。一方の力士が相手に技をかけて、土俵を割るか膝から上が地面につく、行司が軍配を上げる、その瞬間観衆は最も盛り上がります。

この土俵上での勝負、とても短い間の出来事です。1分以上続くことは珍しく、短いものでは数秒で決着がつきます。

他の格闘技を考えても、その短さは際立っています。ボクシングで1ラウンドKOの試合がありますが、それは稀であり、普通は30分以上勝負が続きます。

格闘技以外のスポーツを考えると試合時間はさらに伸びます。ラグビーで80分、サッカーで90分、野球は通常2時間を超えます。

私たちは勝敗の瞬間をこれだけの時間待っているわけであり、その待ち時間こそが勝負を味わう時間でもあります。

それに対して相撲は競技の時間があまりにも短いです。勝負の展開を考えているうちに勝敗が決します。わかりやすいと言えばそうですが、野球やサッカーのように時間をかけて競技を味わうことができません。

それゆえに、相撲では土俵上での勝負以外も見どころになってきます。

呼び出しによって幕内力士が土俵に上がってから立ち合いまで4分間の制限時間があります。3~4回仕切り直しをして、その度に汗を拭き、塩をまいて睨み合います。私が子供の頃、全く意味が分からなかった行為です。

勝負とは関係ない部分でいうと、十両以上の力士は毎日土俵入りがあります。そのためにわざわざ化粧まわしに着替えて、きまった形で土俵に上がります。

横綱になれば、横綱土俵入りがあります。千秋楽には、これより3役揃い踏みがあります。1日の取り組みが終わると弓取式が行われます。場所前には「土俵まつり」があり、千秋楽の後には「神送りの儀式」が行われます。

こうしてみると、実際の勝負以外の行事がものすごく大きいのが大相撲です。

行事だけではありません。相撲界は数多くのしきたりでがんじがらめな世界です。

競技中はもとより、普段の生活時の髪形や衣類まで決められているスポーツが他にあるでしょうか。(ここでは大相撲を他の競技と比較するため便宜上「スポーツ」という表現を使います)

その他、部屋や一門制度、力士間の伝統やしきたり、あるべき姿や言動。何しろ大相撲は神様や日本という国自体と結びついているために、他のスポーツとは異なる非合理的で理解しがたい部分が多々あります。つまり「面倒くさい」んです。

さらにこの面倒くささ、素晴らしい競技を行うために存在するものではありません。どちらかというと様々なしきたりや流れの一部として土俵上の競技がある、そんな感じさえしてきます。

勝った負けたがメインではないんです。スポーツマンシップが大切ではないんです。その証拠に体重差が倍近くあるような取り組みが平気で組まれます。だから勝負の部分だけを切り取っても、相撲を本当に楽しむことができません。面倒くさくても、その前後に延々と続くものを理解してこそ、勝負の神髄を味わうことができるのです。

まるで人生のよう

この相撲を味わうための面倒くささ、あるものに似ています。

そうです、私たちの人生です。

難しい問いになりますが、私たちの人生において土俵上の勝負に当たる部分、つまり一番意味のある大切な部分はどこなのでしょう。

「人生の意味」は人によって異なります。また、言葉が存在しなければ、それらもまた存在しません。概念とは言葉の運用の効果であるからです。とても難しい問題なので、ここでは私の考える「人生の意味」について書きます。

以前の記事でも説明しましたが、私は「人は何のために生きるのか」という問いに対する答えを「仁義なき戦い・広島死闘編」において千葉真一演じる大友勝利のセリフから学びました。

「神農じゃろうとばくち打ちじゃろうと、ワシらうめえもん食うてマブいスケ抱くために生きてるんじゃないの」

あらゆる生物に共通する「生きる意味」です。

読み替えると「生き続けること・自分の子孫を残すこと」です。

このとても単純なことが、社会的な存在となった、つまり弱肉強食で一人勝ちが許されない人間の世界では面倒くさいのです。

自然状態とは異なり、人間社会には生き続けて行くための数多くの守るべきルールがあります。私たちは幼少の頃より、親や学校や地域社会から時間をかけてそれらを教わります。

人間社会では「自分だけが生き続ける」態度をとることは許されません。それは面倒くさいことでありますが、同時に弱者を生き残らせるシステムでもあります。

自分の子孫を残すことはもっと面倒です。人間社会にはインセストタブーが存在します。パートナーを得ることは容易ではなく、得たとしてもそれに付随する様々な社会的制約によりがんじがらめになります。

何しろ人間は、生殖行為に付随して「愛」とか「恥ずかしさ」という概念を持っているのです。世の中の「文化的」と呼べるもの、芸術や文学やエンターテイメントで、これら「愛」や「恥ずかしさ」の概念から外れて存在できるものはあるのでしょうか。

自然界で見ればたかが「生きて・子孫を残すこと」この単純なことが、私たち人間の世界ではとても複雑で「面倒くさい」ことなのです。しかし、人生の味わいはその面倒くささの中にあると言えます。

私が相撲を見る時、その世界の中にこの人生観が重なってくるのです。

本当に意味のある部分は少しかもしれません。しかし、その部分が単体で存在することはできません。時間や空間や人間同士が複雑に絡み合った「面倒くさい」世界の中でクライマックスはやってきます。相撲はそのことを私に教えてくれるのです。

本日は3月場所の初日です。私は「相撲上げ」の状態で「面倒くささ」に期待しています。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。