水風呂で電車になる
サ室にある12分計はどこに行っても同じ形のような気がする。形は丸く、縁は赤く文字盤は白地に黒の数字、赤い秒針に黒の分針、そして中央に「12分計」の文字。
そもそも、なぜ「5」でも「10」でもなく「12」なのか。本場フィンランドにもそのような時計があるのか、そのような疑問が湧き上がってくるが、ともかく、この国のサ室の多くは12分を基準にまわっている。
かく言う私も「時間なんか気にせずに自分の体に耳を傾けろ!」と思いながらサ室に入るのであるが、結局12分計をチラ見しながら水風呂へのタイミングを計っている。
サ室を出て、かけ湯をしてもなおそのままのテンションで、水の冷たさを求め、吸い込まれるように肩まで水風呂に浸かる。十分に温まった体の熱をキラキラの水が奪っていく時、私は思わず電車になる。
「フウゥィーーュュッ」
言葉ではない。私の口から電車のブレーキ緩解音が漏れてくる。自分のイメージは、聞きなれたJR西日本223系のものである。
浴槽への階段を下りながら息を入れ、水に体を沈めながら、緩解音と共に息を吐き出す。実際の223系のものよりは長めではあるが、自分の中のブレーキもゆっくりと緩んでいく。
水の冷たさで血管が引き締まり、脳への酸素量が増えて気分がよくなる。
私は水に浸かったまま中空を見上げ言葉にならない声を出し続ける。
「fスゥーッ、fスゥーッ、fスゥーッ、fスゥーッ」
今度は主要駅で大量の乗客が下車したため、エアが抜けていく台車の様子だ。エアが抜けたら今度はコンプレッサーで補充していく。
「ズクズクズクズクズクズクズク・・・・」
息の続く限り空気を圧縮していく。電車となった私が動き出し、水風呂から出て屋外の「ととのいイス」まで進んで行く。
周りの人の存在の有無で「声=音」の大きさは変わるが、声の大小にかかわらず、水風呂の私は周りから見ても「普通の良識ある社会人」には見えないだろう。そうだ、人ではなく電車になっているのだから。
鉄道ネタをもう一つ
電車ではなく、それを運行する側になることもある。一人で車を運転する時、私は電車の運転手になる。
まっすぐ伸びる市街地の道、等間隔で信号が並んでいる。信号はお互いに連動していて目の前には青い光が並んで見える。気分は閉塞区間が短い都心の通勤電車。「第5閉塞しんこーうっ!」私は信号の現示を確認しながら車=電車を走らせて行く。もちろん、指差し確認も忘れない。
気分は運転手なのだが、時々電車の要素が混ざってくる。
アクセルを踏んで車を加速させるとき、耳に入ってくるのはエンジン音であるが、私の口はそれをモーター音に置き換える。
信号で停車中、私の足はブレーキを踏んでいる。車のブレーキはエアを使わないが、私の中ではエアブレーキを制御するタンク内の圧がだんだん下がってくる。そのうち私の口がコンプレッサー音を発して、エア圧を上げはじめる。
同乗者がいる場合は我慢しているが、一人で運転する時、抑制から解き放たれた私は常に私以外の何者かになっている。
歳をとったらそんなことはなくなるのかと思っていたが、40代も後半になってもこの傾向が一向に収まる気配はない。
本当の私はない
サウナで電車になったり、車で運転手になったり、これらは極端な例かもしれないが、考えてみると自分とは「誰かが積み重なった姿」と言えるかもしれない。
わかりやすい例を言うと、人は映画を観た時、その主人公が憑依しその世界観の中をしばらく漂うことがある。私はリアルタイムに経験はしていないが、「昭和残侠伝」や「燃えよドラゴン」の後、高倉健やブルース・リーとなった人が多数いたという話を聞いたことがある。
映画や小説の登場人物、様々な分野で実際に活躍する有名人、フィクション・ノンフィクションを問わず、私たちは日々の生活の中で目にする様々な人から何らかの生き方に共感し、感覚が同期し、そして行動が規定される。
ドラマの主人公を意識しながら歩き、言葉のトーンを変え、食べるものを選ぶ。意識しようとしまいと、私たちの生活の細部にまで俳優や著名人の好みや身体運用が入り込み、日々の生活を形作っていく。
私たちに入り込むのはこのような人達だけではない。程度は小さいかもしれないが、学校や職場や地域をはじめ、日々接するすべての人、または今この世にいなくても、私たちの脳裏に現れる先祖を始めとする故人たち、これらの人々も私たちに乗り移ってくる。
それだけではない。人は動物の生態や自然現象を見ても、そこに何らかの「人間的な」要素を見出し、それを思考や行動に反映させる。ライオンの行動に誇りを見出し、フクロウの表情に知恵を重ね、星の動きに己の運命を関連させる。それが私たち人間である。現に私も無機質である電車の中に命の息吹を見出して、それを自分に移しこんでいる。
そう考えてくると「私」とは一体何なのだろうという気持ちになってくる。実際に「私」は存在するのだろうか。「私の振舞い」とは誰の振舞なのだろう。
「私」の好みも思考も行動も、全てが無数の人々から影響を受けた無数の層の上に成り立っているような気持になる。「私」はミルフィーユのようなもので、私以外の要素の複雑に絡み合った積なのかもしれない。
「哲学や倫理学をもっと勉強しろ」と言われそうであるが、私は今このようなことを考えながら不思議な気持ちになっている。
「私」が私以外のものからでき上っているとするのなら、私に対してもっと気楽な気分で接すればよいなのかもしれない。なぜなら「私」は私のような形をした私以外のものからでき上っているから、その分「私」に対しての責任は減るからだ。
しかし、私以外の他人に関しても、それを構成してるのがそのほかの無数の人や物とすれば、いったい「自分」というものはどこにいるのだろうか。すべてから切れ目がなくなっていく気分である。
私も私以外のものもすべて、様々な波長が混ざり合った光や音や重さみたいなもので、それらがグルグルと形を変えながら循環している。まあ、素粒子のレベルで見ればそうなのであるが、そこに「心」、それも「私の心」という要素が絡むから話がややこしい。
「私」とはとてつもなく不思議なものだ。