私が大したことないだけ

苦手意識

英検1級に合格した後、いくつかの記事で「実感として英検1級は大したことない」というような内容を書いた。しかし、これは考えたら失礼なことを言っていると気が付いた。

誰に対して失礼なのか。それらの記事を読み気を悪くした英検1級の保有者、およびこれから1級を目指そうとしている人たちに対してである。ブログ上に記事を載せるということは、すべての人が目にする可能性があるということ。100パーセントすべての人が傷つかない言葉を載せることは不可能であるが、配慮できることがあればするべきであると考える。

このブログでは、まだコメントを受け付けていないが、それができるなら文句の一つも言いたいと思われた方もいたかもしれない。それらの人に対して申し訳ないと思う。もし、気を悪くされたのであればごめんなさい。

考えてみれば、英検1級が大したことないのではなく、それを取得したにも関わらず英語に自信を持てない私自身が大したことない存在なのだ。

私と英語との付き合いは、最初から苦手意識との戦いであった。

中学校の授業は、ほとんどうわの空で聞いていた。遅れた分を取り返そうと、日曜日の午後に放送していた「セサミストリート」を意味も分からないまま見て「アメリカの幼児がわかることを私は全く理解できない」と暗い気持ちになった。ポイントがズレている。

高校では運よく進学クラスに入ったが、周りは医学部や京阪神大を目指す秀才たちに囲まれていた。高1の時、友達の1人がが他のクラスの子に”モーセル”というあだ名をつけた。私は何も考えずに聞いていたが、それが英語の”morsel”であり、おやつやジュースをよく”一口”といって要求していた子に対する皮肉であることが分かるまでに卒業から10年以上かかった。16歳の友人が口にしていた”morsel”は英検1級レベルの単語である。

大学に入っても「英語に興味がある」という割には、私は英語ができなかった。少し背伸びして始めたのがNHKの「やさしいビジネス英語」だった。スクリプトを見ながらヴィ二エットを聞いても、速さについていけなく、何を言っているのかわからない。

興味があって学習をするが、自分の能力に自信を持つことなくそれを続けてしまう。時には苦しくてやめようと思うが、そうする勇気もなく中途半端な立場で苦手意識をもったまま時を重ねていく、それが私と語学との付き合い方だった。

どうすればいいのだろう

この苦手意識から抜け出すために、私は何ができるのだろうか。

検定合格はあくまで到達点の一つであり、それが最終地点ではない。私はそのことを深く考えず、単に1級を取得すれば英語に対するモヤモヤが消えると考えて学習を続けてきた。イタリア語に関しても同様で「4年制大学イタリア語専門課程卒業程度」と検定のHPにあったのでそこを目指しているだけである。

確かに検定に対し「~しなければならない」と思いながら英語に接する時間は無くなった。今は洋書を読んだり、英会話をしたりと、自分の好きな事だけを行っている。

しかし、好きな事だけやっているようでも、やはりフラストレーションは溜まっていく。英文を読んでいて頭に入ってこない部分がある。特に文学作品はそれがひどく、児童文学レベルの作品でも読んでいて意味がつかめないことがよくある。

和書であっても、私の読んできた本は圧倒的にノンフィクションが多い。既読の文学作品はジャンルが偏っており、明治以前の古典作品や詩に関してはほぼ読んでいない。そういった今までの私の偏った読書歴も、英語を味わううえでマイナスに作用しているのかもしれない。

そういえば映画もそれほど見ていない。2時間の映画を観ることよりも、その時間語学や他の”有意義な”ことを行うことを優先してきた結果である。英会話の中で気の利いた言い回しができないことも、映画を観てこなかったことに関係しているのかもしれない。

こうやって考えると、今まで「やってこなかったこと」の積み重ねが、私の英語に対する苦手意識を形作っている。その解消のためには、幅広い分野の書籍を読み、映画を観て、人と話をして、人生経験を積み重ねていかなければならない。

どの程度まで?それは私が英語の使用に対してストレスを感じなくなるまで、つまり母国語である日本語と同じレベルで運用できるまでである。

そして、その段階を目指そうとすることは、すなわちモヤモヤのレベルがこのブログを書き始めた時点まで悪化することを意味する。

私は何を学んだのか

こうやって記事を書いていて、滑稽な自分の姿が見えてくる。

私はこの1年半、ブログを書くことで何を学んできたのであろうか。

上に書いた思考の流れそのものが、今までの私を苦しめてきたものなのだ。

「私には足りないものがある」そのことに気が付くことはよい。しかし、問題はその後の気持ちの変化である。

1:欠けているものがある ⇒2:故に今はダメな状態 ⇒3:何かをしなければならない

そして「何か」を行ったとしても、欠けている状態は永遠に充足されないままである。それは次なる「何か」を求め続けることになる。私のモヤモヤはいつまでたってもなくならない。

自分の欠けている部分に気付くことは全く悪いことではない。ソクラテスが述べたように、知性はそこから起動していく。問題はその後である。私は「欠けている自分」を「ダメな状態」としてとらえてしまう。それはつまり「そうあるべきではない状態」の自分である。

しかし、そのことは「あるべき自分」「本当の自分」という唯一のパーソナリティーを求める結果となる。あり得もしない幻想を求めることは、無限地獄の中に足を踏み入れることでもある。私の人格は一つではなく、時と場所と相手によって無数の層をなしているもので、そちらの方が自然である。

欠けている自分を自覚しつつも、その状態を心穏やかに認めることができる。その上で、やるべきことがあると思えば肩の力を抜いてやればよい。

自尊心を持ち続けることと、今日のこの瞬間を最大に味わうこと。

今回の英検の件で言えば「大したことないと思っている自分」もありで、それを認めたうえで「今やりたいこと」を楽しんでいこうという心持になること。そういう風な思考の流れが持つことが、私をモヤモヤから解放し、今を生きる状態に近づけるであろう。

ではどう行動すればいい?

時間軸を切ること。先のことを考えず、目の前の英文、発する一言に集中し、味わうこと。

「大したことない私」はそう考える。


投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。