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砂川駅は函館本線の特急停車駅ですが、駅前にバスは乗り入れていません。したがって、この駅を中継してバスでどこかへ向かうには、少し離れたバス停まで歩く必要があります。地図で確認すると、砂川病院前が一番近そうなバス停ですが、駅から徒歩で5~6分かかりそうです。
私たちの乗った特急列車が砂川駅に到着してからバスが発車するまで5分しかありません。このバスを逃すと次の便は1時間後です。私たちは、砂川駅で下車するとダッシュでタクシー乗り場に向かいました。ストリートビューで見た砂川駅前には、タクシーが1台しかとまっていなかったのです。
車に乗り込むと運転手さんに言いました。「砂川神社前バス停に5分以内に行けますか?」。私たちはタクシーで先回りしてバスに乗ろうとしたのです。
私と次男が乗ろうとしていたバスは赤平方面へ向かう便でした。私たちの目的はそのバスに乗り、途中にある歌志内市へ向かうことでした。特急列車⇒タクシー⇒バスという変則的な交通手段です。それにしても、列車からバスを乗り継いで向かうことが全く考慮されていない場所とは一体どんな街なのでしょうか。
歌志内に向かったこの日は、私と次男の北海道旅行の初日でした。どうしてこのタイミングで私たちが北海道を旅することになったのか、その理由はここでは書きません。またいつか文章にできる日が来ればいいなと思ったいます。
歌志内を訪問した理由は次男の希望によるものでした。彼は数年前からこの地に興味を持っていました。地図や統計を眺めることが好きな彼にとってここは特別な場所でした。それはこの街が日本で一番人口の少ない市であり、類まれな人口減少を記録した街であるからです。
バスに乗っているのは私たちを含め5人です。時間調整のためゆっくりと走るバスは平野部を通り抜け、砂川の谷へと入っていきます。
子どものころ見た地図
15分ほど走ると上砂川へと到着します。私は道中、窓に顔をつけて必死に廃線跡を探します。私が時刻表を読み始めたのは約40年前。その当時、この辺りにはいくつかの支線が通っていました。
函館本線上砂川・美唄支線、歌志内線、幌内線、万字線。私は時刻表の地図でこれらの路線を見ながら「こんなに多くの支線があるなんてどんな場所だろう」と見たこののない北の大地に思いを巡らせました。
石炭運搬が主な目的であったこれらの路線は、石狩炭田の衰退と共に全て廃止されてしまいました。子供の頃の願いがかなわず、乗る機会を失った私は、それらの路線の微かな名残を求めて目を凝らします。
バスは上砂川から低い尾根を越えて歌志内の谷へと入ります。川に沿ってポツポツと小さな集落があります。砂川から30分で、バスは歌志内の中心市街地に到着しました。
私たち2人が下車すると、運転手は無人のバスと共に赤平方面へ去りました。バスのエンジン音が消えると静寂が訪れました。鳥の鳴き声がよく聞こえます。
早送りで教えてくれる
この街で約2時間過ごします。開いている店はほとんどなく、歩道はまだ雪で覆われています。夏ならレンタサイクルを借りるところですが、今はそれも無理です。
私たちは図書館へ向かいました。信じられないくらい小さな図書館ですが、幸運なことにその一角に郷土史のコーナーがありました。私たちは、かつてのこの街の姿を写真を通じて見ました。今私たちがいる場所には巨大な小学校があったようです。数多くの子供たちでにぎわっていたこの場所ですが、今は館内に私たち2人しかいません。ここに来る途中も、人ひとり会っていません。
職員の女性が出てこられたのでお話をしました。私たちがこの街に興味があることを知ると学芸員の方を紹介してくれました。私たちはその方と徒歩数分の郷土資料館へと向かいました。
図書館と同様に資料館も貸し切り状態でした。私たちはこの街について、石炭産業について、そして北海道の開拓について話を聞きました。2時間をどうやって過ごそうかと考えていた私たちですが、気が付けばこの2つの場所で時間を使い切ろうとしていました。
次男は私に似ているのでしょうか?この街に魅かれる彼の表情から私と同じ匂いを感じることがあります。それは、すべてに対する「無常観」です。
この街の人口は三千人を切ろうとしています。石炭産業の最盛期には5万人近くの人が住んでいました。70数年前の話です。それは、人間の歴史から考えれば「つい最近」のことです。
この街の人口は、僅か3世代の時間で15分の1になりました。平地の乏しいこの地の一体どこにこれだけの人が住んでいたのか不思議な気分になります。
「住宅、水道、娯楽施設、最盛期のこの街は行政というより炭鉱会社によって作られた」学芸員の方はそう解説してくださいました。黒いダイヤと言われた石炭によって潤ったこの街はどれほど賑やかだったのでしょう。
宝の石を輸送した歌志内線は、国鉄でも十指に入る黒字路線だったそうです。私たちは、膨大な利益を国鉄にもたらしたその路線の中心、歌志内駅の跡に立つ資料館にいます。繰り返しましが、僅か3世代前の話です。
ここにいると世の無常観を感じずにはいられません。世の中の全ての場所や事柄が無常であるには変わりないのですが、ここほど早送りでそのことを感じさせてくれる場所はめったにありません。
江戸時代末期、北海道内で幕府の勢力が及ぶ場所は渡島半島の一部、松前藩の領地だけでした。残りの広大な地域はアイヌの人々が伝統的な生活スタイルで暮らしていました。
明治に入り北海道が開拓され、何もない場所に街ができ、急速に発達しました。そしてその街は、産業構造の変化と共に急速に縮小し、また元の自然の姿にもどろうとしています。
長い人間の歴史の中でパッと現れて、まばゆい光を放ち、そして炎を消そうとしている街。その街を見る時、私は人の人生をそこに投影せずにはいられません。私たちの人生も、歴史を考えるとこの世に一瞬だけ輝く光のようなものです。遅かれ早かれ、その炎を消す時がやってきます。
「また街が賑やかになって歌志内線が復活することはあるん?」
最近、鉄道に興味を持ち始めた次男が私に聞きます。次男もかつての私同様に、時刻表復刻盤の密な路線図を見てため息をつくタイプです。
「それは無理やろ」
私はそう言おうとしましたが、断定することを避けました。世の中は無常であり何が起こるのかは誰もわからない、そのことを強烈に教えてくれるのは外ならぬ歌志内の街であるからです。