年を取ってわかってくること
不惑をとうに過ぎたのに落ち着かない。
今までの人生、恵まれているはずなのに、それに見合った幸福感が感じられない。
そんなことを考えながら、文章を書くことで心を整えようと始めたブログです。
こんにちは、大和イタチです。
40才なんてかなりのおじさんだと思っていました。本当にそんな年になるのかと。
「縄文時代の平均寿命は35歳ぐらい」中学の時、社会の教科書に書いてあったこの記述が私を苦しめました。
「人生ってそんなに儚いの?」
35歳になった時「5000年前なら俺の人生ここまでか」と暗くなりました。
タイトルは忘れましたが、何かの読み物で「江戸時代までは、末っ子が成人するころに親は死んでいた」という記述を目にしました。
当時の成人は15歳だったことを考えると、「江戸時代なら俺の人生あと数年か」と、現在、暗くなっている私です。本当に基本的な考え方がネガティブなんです。だからモヤモヤで、こうやって気持ちを書くことが必要になってくるのでしょう。
自分の気持ちがネガティブになるきっかけを考えてみると、多くは「年を取っていく=人生の残り時間が減る」に関連したことを見聞きしたり、考えるとそうなる傾向があります。
でも、これは今の世の中すべてに当てはまる傾向かもしれません。「加齢=悪いこと」この基準にのっとり、老若男女問わず年を取っていないかのようにふるまうことに精を出し、それに価値を見出しているのが現代社会の一面です。
私もその中の一員なのですが、加齢もまんざらではないぞ、と思う時もあります。一例を挙げると「野菜がおいしいと思うようになった」ということです。
夏の四天王
妻に「今日は何が食べたい?」と聞かれます。
普段なら「刺身」とか「鶏肉」と答えることが多いのですが、夏は圧倒的に「野菜」が食べたくなります。
これは40歳を超えてから感じるようになったことです。
体が求めている栄養素が変わってきたのでしょうか。それとも、消化器官の処理能力が落ちてきているのでしょうか。
味覚も変わってきているように思います。
野菜の中に含まれる、直接的ではないけれど微かに主張する甘みや苦み、時にはえぐみまでがおいしいと感じられます。
そんな野菜がこの上なくご馳走に思える時期、それが夏です。
ナス・ピーマン・オクラ・トマト
これらの野菜を私は夏野菜の四天王だと考えており、毎年その旬が来るのを楽しみにしています。
ちなみに、これら4種類の野菜で子供のころ好きだったものは一つもありません。
田舎で育ち、家の裏に畑があったので、夏になると食事のたびにトマトは毎回切ったものが、ナスもかなりの割合で焼きナスが夕食に出ていました。焼きナスを生姜醤油で食べる親をみて「こんなグズッとしたやわらかい食感の野菜のどこがうまいんだろう」と感じていたことを思い出します。
ピーマンは子供の嫌いな香りがあり、オクラはその粘り気がどうしても好きになれませんでした。
大学生になり、一人暮らしを始め、学食や町の定食屋での食事がメインとなりました。
当然、自分の食べたいものばかり食べて、わざわざ野菜を食べる場面などありません。
そんな生活がしばらく続き、社会人になり、ある日居酒屋で焼きナスを注文しました。
アツアツのナスを一切れ、上に盛られた鰹節と共に箸に取り、生姜醤油で食べます。
自分の肉体を構成する成分の内、欠けていたものが満たされていくような感じがしました。あれほどいやだった柔らかな食感も、咀嚼に優しく、体が吸収しやすいようにしてくれているんだ、と思えるほどになっていました。
私がナスをクリアした瞬間でした。
祖母の気持ち
それから幾年月、私も中年おやじとなり、世の中の中年がそうであるように、すっかり野菜の、特に夏野菜の魅力にはまってしましました。
ナスとピーマンを油で揚げて、生姜の効いた出汁に浸してしばらく冷やします。
妻がよく作ってくれる夏の一品です。
納豆と茹でたオクラを輪切りにしたものを混ぜ合わせて、鰹節をたっぷりかけて醤油で食べます。
ネバネバとネバネバの組み合わせに、疲れた体が喜んでいるのがわかります。
美味しくて優しくて、夢中になって食べます。
どちらの料理も小鉢では足りなくて、小さめの丼で食べます。
お酒のいいあてにもなります。
子供たちに「めちゃくちゃおいしいぞ」と言っても、彼らの箸はなかなか進みません。
自分が子供のころ、祖母が「おいしいから食べて見なさい。」という料理を食べて、少しも美味しいと感じなかったことを思い出しました。
どうして無理やり食べさそうとするの、とさえ思いました。
私は今、息子たちに対して祖母と同じことをしているのでしょう。祖母も、自分がおいしいと感じるものを孫に食べさせたかったに違いありません。
ただただ、大切な人に喜んでもらいたいという純粋な気持ちです。
その孫思いの気持ちが、今になって初めて分かります。
「おばあさんありがとう」
もう直接伝えることはできませんが、心の中でお礼の言葉が出てきます。
野菜は太陽の光?
食物連鎖を考える時、始まりはいつも植物です。
海の中で植物性プランクトンが太陽の光を取り入れて成長し、それを動物性プランクトンが食べて、それを小魚が食べ、最終的にマグロやブリといった大型の捕食者に至ります。
陸上動物でもそれは同じで、太陽の光を利用し光合成しなければすべてが始まりません。
光合成をおこなわない、椎茸やエノキなどの菌類も、結局は成長するための栄養素を光合成によって作り出された他の植物に依存しています。
そう考えると、野菜を食べるということは太陽の光を食べているようなものに感じられてきます。
そして、その光が一番強い夏に育つ野菜は、生命力に溢れ、直接体に太陽のエネルギーを運んできてくれるようなおいしさがあります。
年をとっていくこと、自分に残された時間が減っていくというどうすることもできない事実、このことは自分のモヤモヤの大きな原因になっている。そのことはわかります。
私は、自分の力では変えることができないことに心を惑わされているのだと思います。
そんな中で、この夏野菜のおいしさがわかったように、年月の経過が悪いことばかりではないという、経年によるよい事実を積み上げることができれば、私の心も少しは軽くなるという期待があります。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”経年によりわかる「よいこと」を一つでも多く見つけられる感性を育てる”