久しぶり
長らく会っていなかった友人や同僚に出会う。
「久しぶりやね。久しブリブリ」
「ブロッコリー!」
私と同世代で関西に住む人なら(特に男性)普通に出てくるフレーズである。
大好きだった島木譲二が亡くなって、もうずいぶん経つ。吉本新喜劇で彼が言っていたギャグが懐かしい。
初めて耳にする人にとっては、それほど破壊力のあるギャグではない。それどころか「なんでそこと結び付けなアカンの?」と思い、幼稚な表現に感じてしまうほどである。
しかし、そんなギャグを毎週のように聞いていると、それらが体の一部のようになってしまい、そこから離れなれなくなる。
- しまった しまった 島倉千代子
- こまった こまった こまどり姉妹
- まいった まいった マイケルジャクソン
- ひえ~っ山 延暦寺 滋賀県
- 頭の中が チンチラポッポ
最初の言葉を発したら最後、一続きのフレーズとして思わず口をついてしまう。
例えば、何か忘れ物に気付いた時「しまった」と独り言を言ったとしよう。すると、その最初の「しまった」に反応して「しまった しまった 島倉千代子」と口走ってしまう。
それは一人でいる時であっても、家族や同僚といる時であっても同じで、声の大小はあるが必ずこのストックフレーズを発してしまう。
吉本新喜劇を一番よく見ていたのは20代の頃であるが、私はそれ以来何百回、何千回とこれらのギャグを口走ってきた。
逆に言うと「しまった」とか「こまった」という言葉を、単独で普通に言うことができなくなってしまった。
人並み以上には言語を意識してきたものとして、興味深くもあり少し怖くなることでもある。
私の頭の中
島木譲二のギャグと並んで、私の頭の中には私の作ったストックフレーズが多数あり、私の言語運用はそれらに支配され気味である。
例えば、起床してすぐに発する言葉。隣にいる妻に「そろそろ起きようかな」と普通に言えばよいのだが、私が言うのは
「そろそろおきよーかわ虹子」。
「起きようか」と、女優の「清川虹子」とをかけている。
「いつから言ってる?」と妻に聞いても「ずっと言ってるからわからない」という答えだが、少なくともここ2~3年は、朝起きるたびに「そろそろおきよーかわ虹子」である。
私は普通の言葉遣いができなくなっていると感じ、この6月に入り自分の言っている「おきよーかわ虹子」的な言葉を記録し始めた。いろいろ出てきた。
先月の記事にも書いたが、私は肌が弱い。常にポリポリと背中や腕を「痒い痒い」といいながら掻いている。不意に強い痒みが襲ってきた時、私は思わず口走る。
「アッかい英和」
「アッかいい」と俳優の「赤井英和」のコンビネーション。
妻に頼んで掻き過ぎた背中に薬を塗ってもらう時、落語家の「桂南光」と「軟膏」が合体する。
「かつらなんこう塗ってくれる?」
「今日の朝ご飯はベーコンサンド、フランシス・ベーコン」
「冷めたご飯をチンして、内藤陳」
「こんなもんでええやろ、エアロスミス」
「もう仕事多すぎ、大杉正明」
「ノートに書いとくわ、スコット・ノートン」
フランシス・ベーコンはイギリスの哲学者、内藤陳は作家、エアロスミスはアメリカのロックバンド、大杉正明は英語講師、スコット・ノートンはプロレスラーである。
哲学、読書、ロック、語学、プロレス、こうして並べてみると、私が今まで興味を持ってきたものが反映されていて面白い。
以上のような言い回しが私のメモ帳に集まってきて、その数半月で約30。だいたいは出てきたと思うが、今でもたまに増えていく。
手帳に並んだフレーズを見て思った。
「私はこんなにも多くの言葉を、よほど注意深く意識しないと、もう普通に言うことができなくなっている」
私を作っているもの
「思っていることが頭の中にあり、それが形になって表れたものが言葉である」
言葉について考える時、普通はこのように考える。
しかし、近代以降の言語学では「言葉を獲得し、その運用の効果として感情が現れる」と考える。拙い知識ではあるが、私はそう理解している。
人間が複雑な感情を持つことができるのは言葉を持つからであって、より幅広い言葉を獲得すればするほど、より多様な感情を持つことができる。言葉は目の前に広がる世界に切れ目を入れる道具で、それによって景色は大きく変わってくる。
外国語を学ぶ魅力の一つはまさにそこであり、私は英語やイタリア語を運用する時、日本語では喚起されない感情が湧き上がる時がある。
例えば、スティーブ・ジョブスのスタンフォード大学でのスピーチはよい例である。私はこのスピーチの日本語訳を読んでもあまり感情を揺さぶられないが、英語の原文を読むたびに涙があふれて来て仕方がない。
私の考えること、感情、そういったものは言葉によって作り出されている。「私」は言葉で編み上げられた布地のようなもの。
祖先から受け継いできたラング=言語を基に、私がパロール=言葉を選択する。そして、その行為が私に一定のエクリチュール=思考の枠組みを与える。
島木譲二のギャグに加え、手帳に書きだした30の言葉を、私はことあるたびに繰り返す。それ以外の一般的な表現で事足りるはずなのに、わざと私は余分な物を付け足して使う。
全ての言葉を合わすと、私はもう何千回と本来とは違う言葉使いを行ってきた。それらが私の思考や感情に影響しないはずはない。
「しまった」の代わりに「しまった しまった 島倉千代子」と言い、「コーヒーは無糖だった」の代わりに「コーヒは無糖だった、武藤敬司」と言う私の人生は、普通に「しまった、コーヒーは無糖だった」と言える人生とは異なるものになっている。
どちらの私=人生がよかったのか、その可否はわからないし、考えても意味がない。現に私は私のたどってきた一つの人生しか持っていなく、これからも一つを選んでいくしかないのだから。
たぶん、私はこれからも「しまった しまった 島倉千代子」と言い続ける人生を選択すると思う。というより、もうその呪縛から離れられなくなっている気がする。
まあそんな人生でもええやろ、エアロスミス。
願わくば英語やイタリア語に関しても、このような運用ができるほどの力を持ちたい。