命の消費

私の自由時間

最近時間の経過が異常に早く感じられます。

「ああ、もう日曜日も終わりか」と思っていたら、すぐに週末がやってきて、土曜日の早朝、このブログを書いています。

最近では記事を書くのは週1回程度で、それは土曜の朝になる傾向があります。そしてその土曜がやってくるスピードがあり得ないぐらい早く感じられるのです。

幸いなことは、週末が終わって月曜日がやってきても「ああ月曜日か」と思わず、かつては長かった月曜日もまた一瞬で過ぎ去ってゆくことです。これも、ブログを書き始めてから起こった変化です。

そんな早い1週間を繰り返していく中で、私の自由時間と行っていることを考えてみます。

一日の内で食事・睡眠・仕事といった、必ず行わなくてはならないことを除いた時間が自由時間になります。

私の場合、平日の夜9時から寝るまでと、土日祝日の私がやるべき家事を除いた時間となります。もちろん、週末に仕事が入ることもしばしばありますし、平日の自由時間が0になることもあります。

ざっくりと計算すると、私は1週間に約30時間の自由時間を持っています。

「30時間かあ」

計算してみて思わずつぶやいてしまいました。思っていたよりはるかに少ないのです。

一週間の内、自分の好きなことをできる時間がたったの30時間なのです。

私はずっと語学をやってきました。その感覚から考えると、30時間なんか本当にわずかな時間です。いったいその中で何時間、英語やイタリア語に割くことができるのでしょうか。

私はずっと「1つの言語を最低でも1日1時間は勉強したい」そう思ってきました。やり始めたら、1時間なんて本当に一瞬なのです。面白い本を読み始めたら、あっという間に3~4時間ぐらいは経過しています。それで休日の自由時間の半分は終わりです。

今では一時休止していますが、私は英語とイタリア語に加えて、台湾語を勉強していた時期がありました。3か国語を一日1時間ずつ、7日間続けると21時間です。30数時間の私の自由時間の3分の2です。

仮に語学を一日1時間勉強したとしても、力を維持するのが精一杯です。若い頃ならともかく、今の私は理解や記憶力も昔のそれらには及びません。

「私のモヤモヤは、無理なことをしようとすることから作り出されている」

こうして自由時間について考えてみると、そのことに考えが至ります。

消えない欠乏感

私は今まで「とにかく時間を見つけて語学をしなくてはならない」と思い続けてきました。そして同時に「どうして私の語学力はこんなに伸びないのだろう」とも思ってきました。

常に「何かが足りない」という欠乏感に支配されてきました。その欠乏感と「~をしなければならない」という焦りが合わさって、気持ちがモヤモヤしていたのだと思います。

こうして計算してみると、欠乏感を感じるのは当たり前だと思いました。そもそも求めているものと、それが可能となる条件の間に大きな乖離があるのです。

週に30数時間の私の自由時間を、全て語学に費やすことができれば、その欠乏感もマシになることでしょう。しかし、それは新たな欠乏感を生むことになります。

日常生活の中で私は語学の他に何を行いたいのでしょうか。

  • 読書をしたい
  • 音楽を聴きたい
  • ギターの練習をしたい
  • サウナに行きたい
  • 立ち飲みに行きたい
  • ボクシングジムに行きたい
  • バイクに乗りたい

本棚には、まだ読まれていない本たちが私に視線を送ってきます。書店や図書館に行くたびに「私には読むべき本がたくさんある」そう思います。これはCDも同様です。何時になったら読んで、聴けるのでしょうか。

学生の頃ギターを弾いていました。下手くそでした。「上手になりたいなあ」と、たまに手にしますが、これも語学と同じで継続が要求されます。

サウナや立ち飲みはたまに行っていますが、私の「行きたい」はもっともっと強いもので「それについてセミプロとして語れるぐらいになりたい」というレベルです。

ボクシングは30代の頃、ジムに通っていました。3分間練習して1分休憩というサイクルのトレーニングが気持ちよく、練習の後のビールは格別でした。5年ほど続け、仕事が忙しくなったのでやめました。本当はまだ行きたいです。

大型バイクを買って2年経ちますが、走行距離は伸びていません。「お前は本当にバイクが好きなんか?」というレベルです。原因はわかっています。休日の語学学習をツーリングより優先させるからです。

日々の生活の中で「やりたくてもできないこと」が私に欠乏感を作りだしていきます。

強欲な自分

週に30時間の自由時間の中で、2か国語を学習し、ギターの練習も続け、ジムに通い、サウナや立ち飲みに行き、読書や音楽鑑賞も欠かさずに、たまにツーリングを楽しむ。

こうやって書きながら思わず笑ってしまいます。私は何を求めているのでしょうか。どれだけ強欲なのでしょか。

そして、その欲張りすぎる欲求が満たされないことに対して欠乏感を感じ、モヤモヤしてきたのです。無理なことを求め、あるはずの無いものを探し、メビウスの輪のようになった終わらない道を歩き続けている男の姿です。

「そのような男が幸せに生きている姿を想像することはできますか?」

私は自分にそう問いかけます。

私は今から何を考えて、どのように行動していけばいいのでしょうか。

仏教には「足るを知る」という知恵があります。しかし私は「そういう知恵があるということを知っている」という状態であり「足るを知るが身についた状態」であるわけではありません。

身に付けるためにはどうしたらよいのでしょうか。出家して仏門に入り修行すれば「足るを知る」が身についた私に変われるのでしょうか。

宗教に新たな価値観を求めて、それに身を投じることが魅力的に思える時があります。信じるべきものが明示され、それに乗っかってしまえば余計な悩みが消えると思うこともあります。

しかし私は清と俗の両方が欲しい人間です。それはわかりますし、現在進行形でその両方を味わっています。

私は、人並み以上に仏さまや神様に対して祈りを捧げたり、神社仏閣を訪問することで心の平穏を得ようとしています。同時に俗なことを味わうことも大好きで、ここには書けないこともしてきましたし、これからもくだらないことに楽しめる人間目指しています。

自由への道

結局、私は欲張りでいろいろなことをやりたい人間なのだと思います。

そのことを認めるのなら、私の強欲さとそれが満たされないことで生じるモヤモヤを解決する方法が見えてきます。つまりそれは、自分のやりたいことができる時間を増やすことです。

現在週30数時間の私の自由時間が50時間になれば、20時間分の欲求が満たされます。台湾語の学習を再開し、毎日1時間読書をして、週に3回ジムに通うことぐらいはできそうです。

20時間の自由時間の増加、休日出勤が完全になくなり週休3日になれば可能な数字です。

「週休3日」
なんて素敵な響きを持つ言葉でしょう。増えた自由時間を生き生きと過ごしている自分の姿が浮かび上がってきます。

私が目指すべきものはこれだと思いますが、今の職業で休日出勤なしの週休3日は現実的にはあり得ません。そのうち私の職業についても記事を書くべきなのかと思っています。そこそこの給料で良い仕事だと思っていますが、完全週休3日は私が定年を迎える前にはまず無理です。

そうなれば考えられることは仕事を変えるということになってくるでしょう。現在のような週休2日(実質1.5日ぐらい)の仕事より、週休3日の仕事を、最終的には働かなくても良い「自由への道」を目指すべきだということです。

そんなことができるのかどうかはわかりませんが、想像するのは楽しいことです。今まで私は、仕事を変えるということを想像することすらできないほどの頭の固さでした。

最近よく思うことがあります。それは、命とは結局時間のことだということです。当たり前の事ですが「命=この世にいることのできる時間」なのです。

私はその大切な命を一秒一秒消費しながら生きています。モヤモヤしている間にも、好きなことをしている間にも、残りの命は消費され続けています。

私がこの世に生を受け、この時間が与えられたことに、まずは感謝です。そして、それを有難いと思えるのなら、真剣に使い方を考えていくべきです。

私は気づき、考えて、それを行動に移していきます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。