ずっと高校3年生

リビングの雰囲気

私は基本的に、学習について子供たちに何も言いません。勉強は言われてするものではないと思っているからです。

確かに学習時間や成績について指摘されれば、一時的に勉強を行うかもしれませんが、それに価値があるとは思えないのです。受け身で行った学習は頭に入ってきません。

そもそも学ぶことは楽しいもので、その楽しさに気が付けば自然と学習を行うと思いますし、気づかなかったらそれもありで、別の人生が待っているだけだと思います。

どちらがいいとか悪いとかではなく、私は学ぶことに価値を求める人間ですが、全ての人がそうあるべきであるとは思いません。他の動物と同様に、人は生まれて、生きて、そして死を迎えるだけの存在です。

そういったわけで、私は子供たちに対し何も言わず、自分は淡々と学習を続けています。

そんな中、家の中、特にリビングの雰囲気が変わってきました。

去年の夏、長男の塾のためにバイク1台変えるぐらいのお金を支払いました。金額を聞いて驚きましたが、「必要なら出してあげる」と言っていた手前、払わざるを得ませんでした。

以後、頻繁に塾から電話がかかってくる日が続きました。3日間塾に行かないと、丁寧にも保護者に連絡があるのです。

私にとっては「勉強するしないは本人の問題なので親を巻き込まないでくれ」と思っていましたが、高額な費用を受け取った手前、塾にも責任があるのでしょう。私は半分うんざりしながら電話を受けました。

そんな長男は今、人が変わったように勉強に打ち込んでいます。何があったのかよく分かりませんが、もう塾から電話がかかってくることはありません。時々、酔っぱらった私の頭では解けないぐらいの英語の問題を持ってきます。

次男は、いろいろあって2年間ほど全く学習をしていません。親として様々な気持ちを体験させてもらいました。しかし、基本的なスタンスは一緒です。「勉強は無理やりさせられても意味がない」です。

それに、強制的に何かをさせられることは、将来、癒しがたい傷になると思うのです。私は、ゆっくりと次男の成長を見守ってきました。

すると、私の前では見せませんが、自分で勉強を行うようになりました。ある分野では、かなり深い知識をつけているようです。教材を用意し、必要があれば教えるのは妻の役割です。私の所には抽象的なことを聞きに来ます。まだ幼いことを言う一方で、確実に思考が深くなっているのを感じます。

去年の秋、妻と二人で日商簿記3級を受験しました。幸いにも二人とも合格しました。得点は妻の方が上でした。

私は、簿記はここで休憩することにしましたが、妻はすぐに2級のテキストを買ってきました。3級に比べて、倍ぐらい時間のかかりそうなテキストでした。

「6月に受験する」といっていましたが、結局申し込みませんでした。忙しい主婦業の傍らでちょっとした仕事もしています。その合間での学習なので、なかなかはかどりません。

そもそも、簿記と仕事とは何の関係もなく、ただ趣味でやろうとしていることでです。テキストを開いたまま、力尽きてテーブルにうつぶせて寝ている妻の姿を、何度もいとおしさと共に眺めました。

4人4様、それぞれのスタイルで学習を行うようになりました。我が家のリビングは今、少しアカデミックな雰囲気になっています。

勉強の呪縛

何となくみんな学習をしている我が家ですが、元祖はやはり私です。

自分の人生を振り返ると、私には常に「学ばなければならない」という思いが付きまとっていました。こういう風に書くと、私は今まで相当多くのことを学んできた博学の人間のように思えますが、実際は全くそんなことはありません。

むしろ、私が真の学びを得て、それを幸福な人生を送るために生かすことを、この「学ばなければならない」という呪縛が妨げてきたとさえ思えるのです。

どうしてこんな呪縛が取りついたのかよく分かりません。物心がついたころには、私は小難しいことを考える人間になっていました。同年代の友達が、素直に楽しめるバカげたことに対しても、あれこれと考えてしまうのです。

「思考>感覚」が強く、ただ楽しめばよいことに対しても、意味を考えようとします。友達が語るテレビ番組の面白さが全く理解できませんでした。頭でっかちな人間です。

大学生になると、哲学書を読み始めました。私の頭では全く理解できません。途中で投げ出しては、懲りずにまた別のものを買います。社会人になっても一緒です。

「私に理解できる日が来るのか」そう思いながらカントやニーチェを買って、ブックオフに二束三文で売り払い、何年かして同じ本を買ったりしています。

語学に関しても同じです。英語だけでよいものの、イタリア語を20代で始めてしまいました。もう20年も学習しています。その成果は、言うのが恥ずかしくなるぐらいのレベルです。

少しやっては休憩する、そんなことをずっとこの20年間繰り返してきました。語学学習にとって何より大切な継続した学習をぶつ切りにし、それでもあきらめられずにモヤモヤしながらしがみついてきた、そんな感じです。

哲学や語学以外にも、まだあります。今まで大量の本を買いました。私の中で「読むべき文学作品」「読んでおくべきノンフィクション作家」そう言った理由で本を買っていきました。

大量の未読の本が本棚に並びました。「時間ができたら読もう」と思いました。語学も、哲学も一緒です。「時間ができたら」という人に、その時間はやって来ない、このことが分かるまでにかなりの時間がかかりました。

私が「学ばなければならない」と思う先には何が待っていたのでしょうか。高校3年生の時「受験勉強をしなければならない」と思っていました。しかし、それはその先に待っている「楽しくて自由な大学生活」とトレードオフできるものでした。

今まで体験したことのないよな「自由や享楽」を求めて私は、大人になってからも「学ばなければならない」と思い続け、同時にそのことで苦しんできたのかもしれません。

私は高校3年生のようなプレッシャーのなか(しかも大して意味のない)、中年への道のりを歩んできたのだと思います。それは疲れるはずですし、モヤモヤもするでしょう。

今はどうなんだろう?

そんな私の呪縛ですが、徐々に変わってきたと思うことがあります。きっかけは言うまでもなく、このブログを書き始めたことです。

人の思考は、言葉にしてみて初めて分かるものです。私が、若き日より中年になる今まで漠然と苦しめられてきたものが、こうして文章を書くことによって浮かび上がってきます。

モヤモヤは言語化されていない状態なので、モヤモヤなのです。解決する糸口は、頭で理解できる形にしてあげる、つまり言葉にすることであることが分かってきました。

現在、私は主に二つの分野を中心に学習しています。

通訳案内士用テキスト
イタリア語テキスト

全国通訳案内士とイタリア語検定2級です。どちらもあと2か月で受験なので焦りながら勉強しています。

仕事をしながらこれら2つの勉強を続けることは、正直いってしんどいです。自由な時間がほとんどありません。それにイタリア語に時間をとられれば、英語を維持するための勉強がおろそかになるため、それもプレッシャーになります。まさに語学の沼状態です。

しかし、勉強をしながら、自分は今「学ばなければならない」という気持ちから「学ぼう、学びたい」という気持ちに変わっていると感じています。

子どもたちや妻が勉強をするのも、ひょっとしたらそういった私の変化を感じ取ってのことなのかもしれません。難しい顔をしながら勉強している姿より、力を抜いて楽しそうにイタリア語を発音している父親からの方が、学ぶ楽しさは伝わるはずです。

高3の受験生は「楽しくて自由な大学生活」を求めて勉強を頑張ります。万年高校3年生のような私は今、何を手にすることができるのでしょうか。

去年、英検1級と日商簿記3級に合格した時、確かに得るものはありました。借方・貸方同時発生。この単純な事実を知るだけで、私の世界を見る目が変わりました。英検も、通訳案内士の受験を意識するきっかけになりました。

1年前には予想しなかったような世界を、今私は生きています。おそらく、1年後もそうなるでしょう。そう思えば、時間的にしんどい学習も「学ばなくては」ではなく「学ぼう・学びたい」という気持ちになってきます。

私の思考の枠組みが変わってきています。私は、今、本当に最後の高校三年生の年をむかえているような気持がします。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。