しまじろう

お調子者の男

先週、「進研ゼミ」で有名なベネッセの方とお話をする機会があった。初対面の方々で、型通りの挨拶から始まり、社交辞令的なお話をしていたが、話を続けるうちに意外と盛り上がってきた。

私は居酒屋で友達と話をするように、”落ち”を考えながら話を脱線させていった。相手が教育関係者なので、大人の学びについての話である。以下は、その時私が話した内容である。

  • 私は去年から、子供用に受講しているリクルート社の「スタサプ」を行っている。
  • 一流の講師の教えで、小学校から高校までの学習事項を学べることは楽しい。
  • 私と妻は去年「スタサプ」で簿記を学び、日商3級を取得した。
  • 子どもの人口は減っており、教育産業は、大人をターゲットにして学びを提供する分野を充実させるべきではないのか。
  • ベネッセさんも、「チャレンジ」や「G-Tec」のノウハウを生かして、大人の学びを提供するようなビジネスをされたらどうか。
  • その際、イメージとなるキャラクターを作り、その講座とキャラクターの名前を「島二郎」にする。

最後の一文が言いたいがための前振りである。

ベネッセの方々は笑いながら「日報で上司に報告しておきます」とおっしゃっていたが、話し終わった後、私は「やってしまった」と後悔した。

なんてお調子者の男なのだろうか。そして、言葉を使うということは何と不思議な現象なのだろうか。

私のなかに「島二郎」という言葉は、この日これらの方々と話をするまでは存在しなかった。話が意外と盛り上がり、「この人たちから笑いを取ってみたい」と思った瞬間に喚起させられた概念である。

学び ⇒ ベネッセ ⇒ こどもちゃれんじ「しまじろう」 ⇒ 大人のチャレンジは? ⇒ 「島二郎」、こんな感じである。

この日、私は家に帰って二つのことを考えた。

一つ目は、初対面の人に、あまりアホなことを言うべきではないということ。

そしてもう一つは、「島二郎」は本当にこの漢字の名前でよいのかということ。

私の「しまじろう」

わたしは机に向かい、ノートを広げ、一番上に「大人のための学び」と書いた。

私は、これから自分の提案したことの責任を取るのだ。つまり「大人のための学び」と「しまじろう」とを結びつける。少なくとも、自分のなかで実りある形にする。

「し・ま・じ・ろ・う」

そこから連想される言葉をノートに書いていく。

「島二郎」「島次郎」「志摩治郎」

苗字と名前とを分けて考える。

「志摩」「死魔」「揣摩」「四魔」

辞書を引くと、今までの人生で目にしたことのない言葉に出会うことができる。私の感性のアンテナは「死魔」にヒットした。結局、私のモヤモヤの根本原因は仏教で言うところの「生老病死」、とりわけ「死」に対して無知で臆病なところからやってきていると思うからだ。

「死魔」を引くと、「四魔(しま)参照」とある。

すぐ上の「四魔」へと移動する。

しま【四魔】

〔仏〕衆生を悩ます4種の魔。貪欲・瞋恚(しんい)・愚痴などの煩悩が煩悩魔、五蘊(ごうん)の和合からなる肉体が陰魔、人の寿命を奪う死が死魔、欲界の第六天の魔王が人間の心身を乱すのが他化自在天魔。

広辞苑 第五版 電子版

「キターッ」

モヤモヤを抱えながら生きる男、「悩める衆生」とは私のことである。衆生は4つの魔に悩まされ続ける。

「煩悩魔」は心を乱し、「五蘊魔」は身体の苦悩を生じさせる。「死魔」は命を奪い、「天魔」は善行を妨げる。

仏教では、生きている限りこれらの「魔」から逃れることはできないと考える。ならば、その存在を認めて、それらの「魔」と折り合いをつけながら歩んでいくしかないのか。

「じまじろう」の「しま」は「四魔」に決まった。こうなると後は早い。

生きている限り逃れられないのが「四魔」であるのなら、私たちはそこから未来を考えなくてはならない。だから「しまじろう」の「じ」は必然的に「而」となる。

而(しか)して、つまり「そして」「それから」「そうであるから」という意味である。

四魔而路有

人は生きている限り、人の心身をかき乱す「四魔」と向き合わなくてはならない。而して、そうであるからこそ、そこに「路」が「有」るのだ。

わたしの「しまじろう」は「四魔而路有」となった。その字面は、こどもチャレンジの穏やかで平和なイメージからは程遠く、暴走族の名前のようだ。

漢文で考えると語順は「四魔而有路」つまり「しまじうろ」となるのか。まあ、どちらでもいい。これは私の妄想の中で出来上がった私のための概念であるから。

「四魔、而して路は有る」私は一人呟きながら、自分の学びについて考える。

ずいぶんと長い間語学を行ってきた。時には、沼に足を取られるような気持ちにもなりながら、なんとか今まで続けてきた。

その他、私は自分でも人一倍「学ばなくては」という気持ちが強く、いろいろなことを知ろうとしてきたと思う。そして、その「ねばならない」という気持ちに苦しめられてきた。

それらに費やした時間を、もっと刹那的に楽しめる何かに使ってきたとするならば、私の人生はもっとモヤモヤが少なく穏やかなものになっていたのだろうか。

私は「否」だと思う。

どのような人生を歩んでいたにしても、私たちは「四魔」に苦しめられる存在なのだ。大切なのは、「何に時間を使う」ということより「どんな気持ちで」時を過ごすのか、ということだと思う。

その「どんな気持ちで」を考える時、四魔の存在を認めてあげることは、自分のなかに一筋の光明を示すことにつながる。

私の中で、今日から「四魔而路有」が始まる。

再びあのベネッセの方々に会うことができたら、胸を張って「四魔而路有」について語れるような生き方をしていきたい。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。