書くこと

WH-Smith

イギリスにWS-Smithというお店があります。鉄道の主要駅の構内でよく見られ、書籍や雑誌、食べ物などを販売しています。

私は10年少し前、WH-SmithのPB商品、A4判・80枚つづりのかなり大きくて分厚いノートを購入しました。イギリスで行われた研修の記録用としてでした。

研修はとても意義のあるものでしたが、その時取った記録を見返すかどうかは別の問題です。半分埋まったノートは報告を作成するとき活用しましたが、以後は私の家の本棚の片隅で放置されていました。

今から3年前、このノートは再び私の前へ現れました。書き始めの日付を見ると2018年12月7日になっています。

ノートを書き始めた理由は、このブログを始めたものと重なります。

私は焦りと恐怖を感じていました。このまま老いてモヤモヤを抱えたまま死んでいくことを。

自分にはわかりませんでした。どうして私が今このような気持ちでいるのか。どうして、私の周りの世界が輝いて見えないのか。

条件は十分揃っているはずです。「衣食住足りて礼節を知る」という言葉がありますが、私はどの部分でも満ち足りていました。家族にも恵まれ、それぞれの親や親戚とも良好な関係を築いていました。体も特に悪いところはないし、友人もいます。

さまざまなものが私には「ある」のです。ないのは、それらを受け取るアンテナと、受け取ったものを増幅して幸福感として私にもたらすアンプでした。

私は「心の中を文字にしてみよう」と思いました。そのとき、目に入ったのがサイズの大きいWH-Smithのノートでした。

研修でとったメモの最終ページから2枚開けて、私は自分の気持ちをノートに書き始めました。最初のページは幸福について考えたことでした。

ノートの真ん中に書かれた「幸福」から伸びた矢印の先に、そこから連想された言葉が書かれています。

「他人と接して嬉しいとき」「将来の理想像」「10年が一瞬で過ぎる」「死への恐怖」、今見返すと3年前に私が考えたことが見えて懐かしく思います。

ノートからブログへ

3年前の12月を起点に私のノートが始まりました。ノートはたいてい夜に書きました。毎日ではありません。仕事から帰宅し夕食を取り、語学や読書に対しての義務感の感じ方が軽いとき、そんな時にノートを開きました。

頭の中に思い浮かぶことを取り留めもなく記していきました。今、私は手元に置いたこのノートをパラパラとめくっています。

  • 「アイロンをかけながら感じる幸せ」
  • 「目にすると気が滅入るもの」
  • 「日本酒に関しての幸せ」
  • 「鉄道の何に心が震える?」
  • 「私は挙動不審なのか?」
  • 「実存は本質に先立つ」
  • 「余命X年なら…」
  • 「職場で猫を飼うことはできないか」

このような事柄について書き込みがなされています。自分でも驚くぐらい丁寧に書かれているページもあれば、読めないぐらい乱雑に書かれたものもあります。

私の頭の中が目に見える形になることは、とてもよいことでした。思いは、外に出て初めて形になります。言葉を話す、文字を書くという行為は、思いを具現化する作業です。

更に、思いは外に出しながら新たに生まれてくるということも経験することができました。アウトプットした文字を見ることで、更なる考えが生成されてくるということです。

理屈ではわかっていたことが、感覚を伴って理解することができました。ノートに文字を書き始めたときには想像できなかったことが、ノートを閉じる時には表れています。

確かに、心の調整とは、今まであったものを整理することだけではなく、そうすることで新たな感覚を作り出していくことだと思いました。

私のノートは40ページほど続きました。途中から日付をつけることをやめてしまったので、最終ページはいつ書かれたのかは分かりません。たぶん2019年の5月ごろだったと思います。

ノートを書くことをやめたのは、私の不安が消えたからではありません。私は相変わらずモヤモヤでしたし、そこから抜け出したいと思っていました。

私はノートを書くことで私は気づいたのです。自分宛てに乱雑なメモを記しているだけではダメだということに。

私はブログを書くことにしました。結果的には自分の心を調整するための、自分用の文章ですが、それを誰もが見える形で丁寧に書かなくてはならないと思いました。

こうやって私の書いたものは誰かに読まれることになります。無責任なことや人を傷つけるようなことは書けません。そのことは同時に、自分に対しても責任を持ち、自分を傷つけないことにもなります。

私は「大和イタチ」というアルターエゴを持ちました。私は彼で彼は私です。普段は彼が文章を書いているのですが、こうやって大和イタチに言及するときだけ「私」がでてきます。言葉ってややこしくて不思議です。そして、そこから生成される心も。

とにかく、私と彼が対話しながら、このブログに文章を書きづづけていきます。そのとき大切なものがもう一つあります。

それは、この文章を読んでいただいている読者の存在です。私は、今のところコメント欄は開いていないので、読者の反応を直接知ることはできません。

しかし「誰かに読んでいただいている」と思うことは、文章を書く上で不可欠で、この私のなかに想定される読者の存在こそが、文を書く場所をノートからブログへと変更した最大の理由です。

私たちが人格とか性格と呼んでいるものは単独で存在するのではなく、あくまで人間の網の目の中、私と私以外の全てのものとの関係性の中での座標のようなものです。

私は、自分の気持ちを整理するうえで、私と大和イタチ以外にも第3の存在と関係を持ちたかった。そして、読者という存在を得てこうして、文章を書き続けています。

私はまだツイッターやインスタもやっていません。コメント欄も閉じているので直接はやり取りできませんが、このブログを読んでいただいてる方に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

これからも文章を書き続けて、自分の心を整えていきます。「あのモヤモヤした日々も長い人生では必要だったんだ」と言える日が来ることを信じてブログを続けます。

ノートと書くことについてもう一つ書きたいことがありましたが、今日は時間がないので、次回書きます。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。