3回×365日×?年
毎日の生活の中で最大の楽しみの一つは、言うまでもなく食事です。
人はお腹が減ると不機嫌になるし、おいしいものを食べると曲がっていたへそも元通りになります。
少し前のNHK第2放送、カルチャーラジオという番組で、外交の世界でいかに食事の果たす役割が大切かという特集を行っていました。おいしい食べ物や飲み物は、頭で考えていたことを棚上げし、感情を変える力があります。家族やカップルが喧嘩をしていても、おいしいものを食べた後では、気分がよくなり喧嘩の理由も忘れてしまいます。
人生も折り返し地点を過ぎると、その食事を”外したくない”という思いが強くなります。
仮に今から40年生きるとすると、1日3回の食事×365日×40年で43,800回。
結構回数があるように感じますが、朝ご飯はいつも軽くパンとコーヒー、週に5日の昼ご飯はほぼ同じ内容のハードコア(メロコア)弁当、晩ご飯もそれほど外食をすることも無いため、お店でワクワクしながらメニューを見て注文することは1万回あるか無いか。
さらに80歳を超えて、今行っている店、メニューを選ぶことは難しいでしょうから、その回数はさらに少なくなります。
確実に1万回以下であると思います。
人生最大の楽しみの一つ食事で”外したくない”、つまり、”間違った選択をしてまずいものを食べたくない”という思いは、残りの回数が減るにしたがって確実に大きくなっています。
だからつい、私は保守的になってしまいます。
例えば、1年に4~5回行くある大衆中華の店ではいつも「焼きそばワンタン定食」を注文してしまいます。
その店の暖簾をくぐる前は、「今度こそ違ったものを食べてみよう」と思うのですが、メニューをみて、「酢豚定食にしてみよう」と思っていても、いざ注文を聞かれると「焼きそばワンタン定食」と言ってしまうのです。確実においしくて満足できることがわかっているから。
なんて勇気がなく、冒険心に欠けているのでしょう。
そんなことでは、新しい世界は開けないし、失敗しながら人は学ぶものなのに、それがわかっていてもその殻を破ることができない。
私が基本的にネガティブ思考でモヤモヤしているのはこの辺に理由があるように思えます。
子供のころに、冒険をして、そして痛い目にあったトラウマがあるのでしょうか。今となっては思い出すことができません。抑圧がかかっているのかもしれません。
逆にそれが理由でモヤモヤが続いているのであれば、その抑圧にこそ解決のヒントがあるはずです。
今までにありえない選択
先日、兵庫県中部をドライブ中、あるドライブインへ入りました。その店へは3~4回行ったことがあり、まあ間違いはないという判断からでした。
牛丼が有名な店で、客の多くは牛丼がらみのセットを注文しています。
私も以前は牛丼+麺類を食べて、満足した記憶があります。
カレーやからあげ定食などを別にすると、その店のご飯ものと麺類の組み合わせは基本的に以下のパターンになります。
- 牛丼 + ラーメン・うどん・そば
- 鶏そぼろ丼 + ラーメン・うどん・そば
- 赤飯 + ラーメン・うどん・そば
20代の時なら、確実に牛丼+ラーメンです。カロリーも組み合わせの中でマックスでしょう。
少し歳をとってきても、私はご飯類に赤飯を頼むことはありませんでした。牛丼か鶏そぼろ丼にラーメン、または天ぷらうどんです。
今回も牛丼をベースにこのドライブインへ入店していたはずなのですが、ショーケースの一隅のメニューになぜか心惹かれました。
そこには、
五目にゅう麺と赤飯セット
何かおめでたいことがあったら食べるもの、それが赤飯ですね。しかし、私にはその意味がよくわかりませんでした。日本が貧しい時代ならもち米を食べること自体が貴重、それに小豆まで入っているのですから「ハレの日用のご飯」ということは理解できます。
しかし、日本が豊かになり飽食の時代の現在、どうしてわざわざ今では質素に見える赤飯を喜んで食べなくてはならないのでしょうか。もっとハレの日にふさわしい豪華なご飯があるのではないのでしょうか。
私は若き頃、お赤飯が出るたびにこう思っていました。
うどんや中華麺に比べて、そうめんは細くて独特の匂いがあって、積極的に食べる麺類ではありません。夏バテして、あまり食欲がないとき、家でお中元でいただいたものを茹でて、どちらかというと消極的にお腹に入れるもの、若き日は素麺とそんな付き合い方しかできてませんでした。
40才を超えて、その素朴な味と、様々な薬味によって変化する食感を味わうことができるようになりましたが、しかし、温かいにゅう麺を食堂でお金を払って食べたことなど一度もありませんでした。
しかし、私はその日、今までなら俎上に登ることなかったその組み合わせに心奪われ、食券を購入してしまいました。
しみじみ 美味しい
この年までなかった行動に自分でも少し驚き、出てきたセットを思わず写真に撮ってしまいました。
写真では分かりにくいのですが、左のどんぶりの下には素麺が入っています。豚肉・エビ・イカ・白菜・人参・しめじ・ネギ・刻みのり、五目以上沢山の具の下に埋もれています。
鶏ガラをメインにした優しい出汁に、炒められた具材の油とうま味が溶けだしています。普通のにゅう麺だとあっさりし過ぎていますが、これはラーメンを食べる感覚に近くて、若者でも満足しそうな味付けです。
にゅう麺の基準からすると、予想以上に”こってり”したこの五目にゅう麺のほてりを沈めてくれるのが、お赤飯でした。白米のように熱すぎず、牛丼のようにくど過ぎず。丁度よいポジションで支えてくれています。
モチ米のモチっとした食感に、小豆を噛んだ時のスッと歯が入るあの粉っぽい食感。子供のころは嫌いでしたが、今、食するとなんてバランスの取れた組み合わせなんだと思います。米を咀嚼しながら、無意識のうちにあの空振りのような小豆の噛み応えを求めています。
にゅう麺と赤飯、どちらも美味し過ぎなく、しみじみと美味しいと感じました。チャーシュー丼とこってりラーメン、10年ほど前はこんな組み合わせが好きでしたが、それぞれをよく味わって食べていたとは思えません。
一見飾り気のない食べ物ですが、その良さをしみじみと味わえることは、歳を取ってきた証拠なのかもしれません。しかし、今まで感じることのできなかった物事の魅力を感じ、新しい価値を身に付けることができるとするならば、歳を取っていくことも悪くないのかなあと感じました。
たかだか、生まれて初めて、にゅう麺と赤飯のセットを注文して満足した話です。しかし、今まで絶対にしなかった選択を自然に行い、そこで何かを得ることができた経験は、これから年を重ねていくことを不安に思っている私を少し楽な気持ちにさせてくれます。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”年を取ってみて初めて分かる良さがあることに気が付くと、少し気分が楽になる。”