刈り払い機
私の父親はまだ神経痛の痛みから解放されていない。鍼灸院に行き、ツボのある場所を記してもらい、母親がそこにお灸をすえているが、どうやら長期戦になりそうとのことだ。
この神経痛、立ったり座ったりの作業なら何とかできるのだが、立ちっぱなしになると足腰から悲鳴があがるらしい。そんなわけで、立ちっぱなしで田んぼに肥料を撒く作業は4月・5月と2回に渡り私が行った。
その後、何とか父の手で田植えを終えた。
田植えが終わると気温は日に日に上昇し、夏の気配が強くなってくる。そうなると田畑の雑草は一気に成長を始める。先日、私はこの2ヶ月間で3度目の帰省を行い、この雑草と戦ってきた。
戦うための武器は「エンジン付きかりばらい機」、田舎で田畑を持つ家には必ずあるマシンである。写真の右側には30㏄の2ストロークエンジンが付いており、その動力はシャフトを通じて先端の円盤に伝えられる。
円盤は高速で回転し、その遠心力で伸びたワイヤーは次々と草をなぎ倒していくのだ。ビニール製とはいえ、結構な破壊力を持っており、茎の太い草であっても少しずつ削り取り、やがて倒してしまう。
私はこのマシンを荷台に積み込み、父親と軽トラで田んぼへ向かった。混合油をタンクに入れ、チョークを引いてエンジンをかける。最近は、チョークを使うことも、セルモーター以外でエンジンをかけることもないため新鮮な気持ちになる。
車の在り方が急激に変化する中、私の生きている間に私の身の回りから内燃機関が消えてしまうのでは、ふとそんなことを思った。実際に実家にもバッテリー式の刈り払い機があった。父親に言わせれば「駆動時間が短くて使いものにならん」そうである。
しかし、電気自動車も最初はそうであった。時代は絶え間なく変わっていく。しかも、その変化の仕方は加速度的に増している。私はどこまでそれについていくことができるのであろうか。
エンジン音と共に
ゴム手袋をはめ、オーバーオール型の防護服を着て、フェイスシールドを装着する。回転するワイヤーによって巻き上げられた小石が、時々こちら側に直撃するのだ。
手元のスロットルを開けるとエンジンがかん高いうなりを上げる。それと共に先端の円盤が高速回転する。ワイヤーが「ヒュー」という音を出しながら空気を引き裂く。
そのままマシンを草の生える面へと下ろしていく。ワイヤーの「ヒュー」という音が「ババッ」に変わり、一気に草が飛び散っていく。面を撫でるようにマシンを移動させると、頭にバリカンをあてたようにそこだけ平らな地面が現れる。
草がつぶされた匂いが鼻に入る。植生によって匂いが異なる。畔に生えている草、私が名前を知っているのは「タンポポ」と「オオバコ」ぐらいである。あとは私にとって名前の無い雑草を次から次へと刈り取っていく。
「ものが最初にあり、それに名前を付けるのではない。私たちがのっぺりとした世界の一部に名前を付けるから、ものは存在するのである」
近代言語学の祖、ソシュールのこの考え方は私が言葉を考えるときの起点となるものである。私のなかで名前を持たない、つまり存在しない草花が(厳密には「雑草」というカテゴリーで存在しているが)私のひと振りにより屍となって倒れていく。
30分ほどかけて、ゆっくりと、しかし確実に田んぼの周りの草を刈り取っていく。刈り倒された草と、刈り払い機の排気ガスの混ざった独特な匂いがする。耳から数十センチの場所にエンジンがあるため、周りの音が聞こえてこない。逆の意味での無音の世界になる。これはなんだかバイクに乗っている感覚に近いものがある。
耳がふさがれている分、そのエネルギーが頭で考えることに向かうようなそんな感じである。バイクに乗っているときも、普段よりもいろいろなことが浮かんできては消えていく。それは仕事のアイデアであったり、単純に歌であったりする。
草を刈っていても、バイクと同様に頭が活性化しているのがわかる。ただ、どちらの場合も記録がとれないので、何を考えてどんなメロディーをつぶやいていたのかほとんど思い出すことができない。
何のための草刈り?
私はテレビゲームを全くしない人間である。だから迂闊なことは言えないのであるが、この草刈りは、人を殺したり物を壊したりするテレビゲームに感覚が近いのではないかと思う。
実際に私がしていることは大量の命を奪うことに他ならない。私によってなぎ倒された無数の雑草は、私がマシンをむける瞬間まで生命活動をつづけていたものである。
根から養分や水分を吸収し、空気中の二酸化炭素を吸収し、光合成を行い、細胞分裂を重ねて成長していく。私のマシンはその過程を、ある時一瞬の間に止めてしまう。つまり、それはその生命体に死を与えることに他ならない。
命を奪っているものは植物だけではない。雑草の間には無数の虫や小動物が隠れている。それらの生き物たちが、高速回転するビニールワイヤーの動きを見切れるはずはない。立ち上がってくる草の匂いの中には、確実にすりつぶされた虫たちの匂いも混ざっている。
カエルが飛び跳ねながら必死で逃げていく。「よかった、田んぼに飛び込んでくれた」私はホッとする。しかし、刈り取ったばかりの足元からは意図的に視線をそらしている。おそらく、そこには逃げ切ることのできなかったカエルの変わり果てた姿があるからだ。
私は何のためにこのように大量の命を奪っているのであろうか。その答えは簡単である。別の命を守りたいからだ。
「コシヒカリ」という名前の付いたイネ科の植物の命を優先的に守る、そのことがコシヒカリを食する人間の命を守っている、そういうことである。
自然状態とは、万物が万物と争うバトルロワイヤルの状態。そんな中から、人間は土の中の水と養分を特定の種に優先して与える方法を考え出した。自然を不自然に変えることで、人間はここまでの豊かさを享受することができる。
私が今していることは「よいこと」なのだろうか。
子どものような問いが浮かんでくる。農業はなかなか面白い。
一人の老人が草を刈る私の方に近づいてくる。幼なじみのTくんの父親だ。20年以上、顔を見ていなかった。小さいころあれほど一緒に遊んだTくんとも、ずっと疎遠のままだ。
「親父から日帰りで草刈りに帰ってくると聞いてなー。若いころの親父そっくりだ。いい子だなー」
そう言い残すと、もとのあぜ道を引き返していった。
知命に近づいて「いい子」と言われるとは思っていなかった。彼にとって私はTくんと遊んでいた頃のままなのかもしれない。
悪い気分ではなかった。これらの人、つまり幼い頃の私を知っている人々もそのうち年を取り、ここからいなくなってしまう。その前に、もっとこの自分の生まれ育った場所と関係を保つことも大切なのではないか。何より、そういう幼い私を知る人に出会うと、私が今まで過ごしてきた人生が起点から浮かび上がってくる。
ドットはどこかでつながり、そのドットの中に「農業」や「故郷」は含まれるはずである。私は、翌月も帰る約束をして家路へと向かった。