路傍の蝉

夏の盛りに

地球温暖化は確実に進んでいると、この10年間の夏を経験して確信している。この時期、昼間の気温が35度を超える地域が現れても驚かなくなった。夜も25度を下回らないことが当たり前となった。私の子供のころは、夏とはいえ朝夕は涼しいと感じていた。

蝉の鳴き声が暑さに拍車をかける。アスファルトとコンクリートに囲まれた都会であっても、どこからともなく蝉が現れて、そこらじゅうでなきわめく。蝉には耳があるのだろうか。何のためになくのかと思う。

時間の経過と共に蝉の種類が変化する。シャーシャーシャー、ジリジリジリ、カナカナカナ、ミーンミンミン。私は人間の音節しか知らないからカタカナで表すとこうなるが、実際はもっと複雑である。

土の中で何年も過ごした蝉は、地上に出て2~3週間で命を終える。私たちが目にしているのは、老後を迎えた蝉の姿である。時間で考えれば老後であるが、生殖活動を含め一番元気がよい。夏にこの世の春を迎える、それが蝉の生体である。

この季節、道を歩いていると命を謳歌して力尽きた蝉の亡骸をよく目にする。たいていは羽を下にして道に横たわっている。カラスや猫に食べられるか、またはアリによって分解されるのか、命を失った後、その形も失うまでのわずかな時間に、蝉はその亡骸を私に見せてくれる。

毎年毎年、私はその姿を見ながら同じことを考える。子どものころからそうであった。今でも変わらない。根本のところで、私がこのブログを書く理由になっている問いである。

この問いによって私は苦しみ、そして同時に前に進もうと思うこともできる。

蝉の死体を見ながら私はいつもい同じことを思う。

「何のために蝉はいきているのか」

つい数日前まで、この世の春を謳歌していた蝉、長い長い地中の生活を抜け出して輝く太陽の光、眩しい木々の緑を知った蝉が、次の日突然命を落とす。腹を上に道端に転がり、猫やカラスにかじられていく。

生きることとは、かくも儚いことであると感じてしまう。

堂々巡り

自然状態の動物や昆虫が普通で、私たち人間が”異常”であることは分かる。動物は、植物を含む他の生物を取り込むことでしか命を維持することができない。

この世に生を受けた動物の99%は、他の動物に捕食されて死んでしまう。運よく道端の蝉のように命を全うしたとしても、最後は何らかの生物の栄養となってその形を終える。

私は自然界でごく当たり前の光景を見ながら、それに虚しさや儚さを感じて苦しんでいる。ここでもその理由を言うことができる。それは、私が「言葉」を持ってしまったから。「言葉」があるゆえに、私は苦しむ。そして、そこから逃れるための道具は「言葉」しかないというマトリョーシカのような状態になっている。

卵からかえった蝉が土の中で長い時間をすごす。調べてみると蝉は樹木の汁を栄養源に成長するらしい。「なんでそんなものを」と人間の私は思う。周りを見渡せばもっと滋養に満ちたものがたくさんありそうなのに、どうしてわざわざ木の汁を吸うのか。

「蓼食う虫も好き好き」という諺がある。生物の進化の歴史は、生き延びていくために自分に有利な隙間を見つけていく過程であったのだろう。それが蝉にとっては木の根であった。実際に、栄養価の高そうなクヌギやコナラの樹液周辺では激しい戦いが繰り広げられている。カブトムシやクワガタ、ムカデやスズメバチまで、蝉の入る余地はなさそうだ。

小さな頃読んだ本を思い出した。漂流した人間が、飢えをしのぐために革靴を海水に浸して食べて生き延びた話だった。木の汁を吸って生きると聞くと、こんな話を思い出してしまう。

その木の汁を栄養源に、蝉は何年も土の中で生きていく。他の昆虫やモグラに捕食されるものも多いであろう。捕食されるとはすなわち突然死。人間界ではメジャーではないこの死に方が、人間以外では標準である。

何年も何年も暗い土の中ですごし、生き延びた幸運なものは、DNAが地上へと向かうタイミングを教えてくれる。初めて出た地上は暗闇である。蝉は天敵の少ない夜の間に地上に出て、明け方に羽化していくのだ。

誰がどのようにしてそんなことを決めたのだろう。動物の行動についての説明を聞くと理にかないすぎている。動物の行動を観察して帰納的に紡ぎ出された言葉であるからであろう。私が知りたいのはその先に横たわっている。「そもそもなぜ蝉は存在しているのか」ということ。

言葉・ことば・コトバ

ここまでの流れ、すべては私の言葉による脳内の運用に過ぎない。

  • 蝉は何のためになくのか
  • 蝉は老後にこの世の春を迎える
  • 生きるとはどういうことなのだろうか
  • なぜ不味そうな木の汁を吸うのか
  • 自然界の法則は虚しく儚い

私の五感が感じることを、私は言葉によって人間の価値、私の価値に置き換えようとしている。路傍の蝉の亡骸を見て虚しいと思うのも、わざわざ木の汁を吸って生きなくてもと思うのも、すべて私が言葉を持ち、それによって世界を切り取ろうとしているから。

動物たちは、ただ、ただ、生きている。「何のために」という問いを立てることをしない。言葉を持たないから、その問いを立てることができない。

私たち人間は言葉を持ってしまった。だから問いを立てることができる。路傍の蝉を見て「命とは何か」「何のために生きているのか」と思わずにはいられない。そして、その問いが私たち人間を苦しめる。

その苦しみから逃れる希望がないわけではない。その光はやはり「ことば」にある。私もことばによって苦しみ、ことばによって前に進んでいる。

俳優の千葉真一が亡くなってもうすぐ1年になる。彼が映画で放ったあることばを、私は頻繁に思い出し、そして救われている。

「仁義なき戦い 広島死闘編」で彼が演じる野蛮で凶暴なヤクザ大友勝利が、父親である加藤嘉演じる大友連合会会長、大友長次に放った台詞。

「のう、おやっさん、神農じゃろうとばくち打ちじゃろうと、ワシらうめえもん食うてマブいスケ抱くために生きてるんじゃないの」

動物はことばを持たない。だから「何のために」という問いを立てることはできない。しかし、人間の立場から動物を見ると彼らが生きる理由が大友勝利の言葉に集約している。

生きることの最大公約数は「うめえもん食うてマブいスケ抱く」こと。つまり「生き延びて次の世代を残すこと」。この世に生を受けたすべての動物に共通しているのはこの二つのことであり、逆に言うと人間以外はこの二つ以外を行っていない。

だから人間にとって「生き延びて次の世代を残すこと」以外は、余剰であり、これこそが言葉を持った人間の楽しめる場所である。私は大友勝利の言葉を思い出すたびに「難し事を考えずに、この、他の動物にはない余剰を楽しめばよいのだ」と考えて安心する。

路傍に横たわる蝉を見ながら、私は以上のような考えを思いめぐらす。だいたい毎年同じパターンである。人として、ことばで悩み、ことばに助けられるを繰り返している。

「何のために」という問いには答えられても、「なぜ存在する」という問いには私は答えていない。それはそれで、考えだしたら苦しくなるのであまり考えないようにしている。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。