歴史と地理
去年の夏、私は日本の歴史と地理の勉強をしていました。全国通訳案内士の一次試験が9月に迫っていたからです。この試験の試験科目の中心は語学を除くと日本の歴史と地理です。
私は試験用の問題集を何冊か買って勉強をしました。地理は得意でしたが、歴史に関しては少し苦手だったので高校生用の教科書と資料集を買って勉強しました。
勉強をする中で、私のなかにある感情が湧き上がってきました。それは「私はこの国のことを知っているようで何も知らない」「日本各地を旅してきたようで肝心なところにはいっていない」という気持ちです。
例えば、私は讃岐うどんが好きなのでこれまで何十回も香川県に行きました。しかし、現存十二城の丸亀城の天守閣には行ったことがありません。
九州もよく旅して、太宰府天満宮にも何度も行きましたが、近くの観世音寺には去年の秋まで行ったことがありませんでした。
学ぶということは新しい自分を作っていく作業です。地理や歴史の勉強をすればするほど、今までとは違った場所を訪ねてみたいと思う自分が現れてきました。
「私はあと何年元気に旅行をすることができるのだろうか」そんなことを考えました。今まで「そのうち行くだろう」と思っていて、その「そのうち」が10年経っても20年経ってもやってこないことは、ざらにあります。
今から20年後の自分を想像します。恐怖を感じました。「まだここに行っていない。そのうち…」と思いながらも徐々にあきらめて、心の奥底で「行きたいけどたぶん無理だろうな」と感じている老人の姿が浮かび上がりました。
今からでも遅くない。バケツリストを作って、すぐに実行していこう。バケツリストとは、死ぬまでに行うべきことのリストです。英語の表現で”kick the bucket”(バケツをける)が「死ぬこと」を意味するところから、この名前になりました。
やりたいこと、たくさんあります。私は旅が好きなので、バケツリストのなかでも、まずは「訪問したい場所編」をノートに書き、それを実行していきます。以下はリストに記されたなかで、この夏訪問した場所です。
名古屋城本丸御殿
「太平洋戦争があと1年早く終わっていたら」
毎年夏が来るたびに私はこの思いをいだきます。軍人以外の日本での死者の多くが、戦争最後の一年間に集中しています。言うまでもなく、各都市を襲った無差別空襲と沖縄での地上戦のためです。
江戸時代初期、息子義直のために徳川家康によって築かれた名古屋城は「近代城郭の到達点」と言われていました。特にその本丸御殿は二条城と並ぶ名建築です。
えらそうに言っていますが、私は今まで名古屋を10回以上訪問したにも関わらず、名古屋城を訪問したことがありませんでした。通訳案内士の勉強を始めるまでその価値を知らなかったからです。学ぶことは、訪問したい場所も変えてくれます。
その名古屋城は、城郭で国宝第一号になりました。そして、国宝となった建物の多くは昭和20年の空襲で焼失してしまいました。終戦の3ヵ月前の話です。
その後「金の鯱」で有名な天守閣は立て直されましたが、それは鉄筋コンクリートと使用した近代建築としての建物でした。今回、私が訪問したのは4年前に立てられた本丸御殿で、焼失前と同じ作りで立てられました。早く国宝に指定されたことで、しっかりとした資料が残っていたため、それらが役に立ったということです。
私は天守閣横にある真新しい御殿へと入場しました。入った瞬間、いや入る前から贅沢な造りであることがわかります。これほどふんだんに上質な木材が使われている建物はそれほどありません。
入り口からカギを描くよう廊下が右へ左へと続き、その内側に多くの部屋が作られています。部屋の装飾は奥に行くほど、つまり城主に近づくほど豪華になっていきます。対面所を超えると、部屋が煌びやか過ぎて庶民の私は落ち着きません。
さまざまな疑問が浮かび、私は係りの人に尋ねますが、建築に関して説明されることの半分くらいは初めて聞く言葉です。ここでも、やはり言葉なのです。私の日本の伝統建築に関する語彙が不足しているため、より分節された細かく美しい世界まで到達することができないのです。
再来してもっと時間をかけてみようと思いながら、私はドルフィンアリーナに、後ろ髪惹かれる思いで向かいました。
犬山城
国宝五城の一つです。すぐ近くを車で通ったことはありました。その時は岐阜の稲葉山城に行きここには来ませんでした。先月、名古屋で相撲とサウナを堪能した後、生まれて初めて訪問しました。
名鉄小牧線で犬山まで来て、列車を乗り換えて一駅だけ進むと犬山遊園駅です。改札を抜けて木曽川方面を見ると、初めてなのに強烈な既視感に襲われます。
その理由は駅のすぐ前にある鉄橋、犬山橋です。鉄道好きなら必ず写真で見たことのあるその橋は2000年までは道路との併用橋でした。子どものころから何度も写真で見たその橋のたもとにやっと立つことができました。感動しながら木曽川の河川敷を歩き犬山城へと向かいます。
時々振り返りながら歩きます。後ろには日本ラインと呼ばれる切り立った崖が見えます。城の向こうには平野が広がっています。この天守閣が建つ小山だけが周りから切り離されています。
山と平野の繋ぎ目に絶妙な高さの小山が残っています。そして後ろには木曽川、もう一つ、名前は分かりませんが、城の上手側には犬山市街から集水し木曽川に流れ込むかなりの水量の川が通っています。まさに「要衝」というにふさわしい場所です。
私は市内の各博物館とセットになった入場券を買って城へと入りました。日本の城は明治維新の時、ほとんどが破壊されました。残っていたとしても天守閣と周辺の一部です。
犬山城も天守閣だけが残っています。本丸の御殿をはじめ、二の丸や三の丸の建物を含む形で城が残っていたとしたら、どれほど価値があったのだろうと思わずにはいられません。
まあ、過ぎたことを悔やんでもしょうがありません。あるものに目を向けます。
天守閣に登りしばらくその空間を味わいます。部屋の隅の方に座り、窓から外を眺めます。時々目をつむり、耳から聞こえてくる音を心の中で遮断します。
老若男女、観光客は最上階まで上り、「すごい、きれい」といい、写真を撮ってすぐに下って城を後にします。かつての私もそうでした。
今は、柱や壁にそっと手を触れ、300年前の世界に思いを馳せます。
当時、この空間に入ることができた人は、ほんの一握りの特権階級だけでした。腰に刃渡り数十センチの大小を持った人たちが、実際にここにいたのです。この同じ柱に触れて、同じ窓から木曽川を眺めていたのです。
私は自分が生まれてきたこと、そして今ここにいることがたまらなく不思議なように思えてきました。この天守閣が作られたとき、私はどこにいたのでしょうか。または「存在しない」とは、いったいどういうことなのでしょうか。それは「ことば」によって説明できうることなのでしょうか。
次々と疑問が浮かんでは消えていきます。そんなことを考えた私が、この日この城にいたのです。300年後の人は、どんな気持ちでこの空間を味わうのでしょうか。私はその時どこにいるのでしょうか。
このバケツリスト「訪問したい場所編」は、どんどんと長くなっています。本を読めば読むほど、勉強すればするほど、行きたい場所が増えていくのです。
実はこの夏もう1カ所訪問したのですが、長くなったの次回にしたいと思います。