午後二時の鉄萌え

鉄萌えスポット

一般の人にとって何にも感じることはないが、鉄道好きにとっては叫びたくなるぐらい興奮することや場所がある。電車のモーター音やエンジン音、複々線区間での列車の追い抜き、行き先の異なる列車の切り離しや連結といった場面が一般的には当てはまる。

私も鉄道好きとしてこれらは大好きである。そして、そのような場面を体験したときの気持ちを、個人的に「鉄萌え」と呼んでいる。私はアニメ好きではなく「萌え文化」からは遠い位置にいるのだが、この「萌え」という言葉を鉄道に当てはめると、なぜかしっくりとくるのだ。

未分化の混沌とした感情があり、それに言葉を与えることで何を感じていたのかが浮かび上がってくる。言葉以前にモノはなく、のっぺりとした世界が言葉によって分節され、初めてモノが現れる。それは概念も同じである。

私の尊敬するみうらじゅんはそれを行う天才である。彼以前に「マイブーム」という概念も「ゆるキャラ」というモノも存在しなかった。言葉がモノや概念を作り出し、私たちの心を豊かにする。

いつものように話が長くなった。未分節だった私の感情は「鉄萌え」という言葉を持つことで、それがどんなことなのか私の中で鮮明になっている。

さて、自分にとっての「鉄萌え」を考えてみる。一番強い「鉄萌え」の感情はどこから湧いてくるのだろうか。踏切、鉄橋、車内チャイム、そんなワードが頭のなかに浮かび上がってくる。

物心ついた時、私は踏切が好きな少年だった。近所にある踏切は、形と信号音をすべて覚えていた。

鉄橋は列車が最も美しく見える場所の一つ。兵庫県北部にある旧餘部鉄橋を渡る寝台特急出雲を見に行ったことがある。あの興奮、美しさ、今でも鮮明に思い出す。

国鉄型車両のチャイム「ハイケンスのセレナーデ」や「アルプスの牧場」を今でもたまにネットで視聴する。子どものころ、列車で遠出した記憶が瞬時によみがえる。

私の好きな鉄道の断片が、次から次へと現れてくるが、最上級の「鉄萌え」を一つだけあげるとするなら、それは「分岐」になると思う。

私の中で「分岐」には2種類の概念がある。大きな分岐と小さな分岐である。大きな分岐とは、尼崎駅で神戸線と福知山線が分かれるように路線が分かれていくことで、小さな分岐とは分岐器(ポイント)によって、線路が複数の方向に分かれることである。

私はこの二つが絡み合った「分岐」に、たまらなく「鉄萌え」してしまう人間である。

街を抜けて

世のなかの鉄道からこの二つの分岐を取り去ってしまったら、鉄道は味気の無いものになってしまう。二本のレールによって結ばれる2点間の線か円になってしまう。”鉄道網”を作り出すのは、これらの分岐によってである。

そんな分岐の魅力を余すとこなく感じさせてくれる場所、つまり私が最も鉄萌えする場所の一つに、私はこの夏、立つことができた。いや、正確に言えば、少しアルコールが入った状態でベンチに座ることができた。

名古屋場所を見学し、サウナを堪能した私は、翌朝犬山へ向かった。私の中のバケツリストの1つ、犬山城を見学するためである。名古屋からは名鉄小牧線を利用した。列車が犬山へ到着する手前、左から犬山線、右から広見線が合流してくる。年甲斐もなく、車両前面から前方を眺めていた私は子どものように興奮した。

三線が合流する犬山駅の構造は複雑で、側線や車庫線も含めて多くの線路が絡み合う。私にとって大好きな大小の分岐が詰まった駅である。そんな犬山駅を、生まれて初めて目にして鉄萌えした私は、犬山城を見学した後、ここにしばらくいようと決めた。

城を見学した後、私は犬山の街を散策した。3つの博物館や資料館に立ち寄りながら、歴史の詰まった旧市街を想像力を働かせながら歩く。途中で街中華でビールと共に昼ご飯を食べる。少しいい気分になりながら犬山駅へと向かう。

中小都市の駅前には同じような雰囲気がある。少し狭い道に沿った商店街、銀行の支店や英会話教室が現れる。路線バスとすれ違う回数が増えてくる。何となく列車が現れてきそうな雰囲気がする。

歩きながらそんな感じがしてきたら、駅のロータリーが見えてきた。やってきたときは列車で通過したからわからなかったが、外から見る犬山駅はマンションの一部のような構造であった。橋上駅の上に住居部分があり、一番上には名鉄の大きな看板が。名鉄の関連会社が開発したのであろうか。

私は階段を登り、駅の中央を貫く自由通路を横切った。駅の反対側へ出ると前方に大きなショッピングセンターが見える。駅へ集う人は予想外に少ない。平日の昼間であるからなのか、それとも自動車大国愛知ではこれが普通なのか。

コンビニで缶ビールを買い、ICOCAをタッチして駅構内へと入場する。

贅沢な時間

犬山駅の構造は3面6線。南側から3線が合流し、北側の各務原線へとつながっている。路線ごとの発着番線は複雑なのでここでは記さない。私は犬山線がメインの1,2番線にいる。

時刻は午後2時過ぎ。夏晴れの平日、中年の男が缶ビールを片手に列車のホームに立っている。完全にダメな人である。私は、人目を避けてホームの端へと移動した。幸いにもベンチがあった。腰を下ろして南側を眺める。

南側を眺める

出発信号機がずらりと並んでいる。右側から犬山線、小牧線、広見線の順番で分岐していく。犬山線へは全てのホームから進行することができる。だから各出発信号の下に「犬」の文字が並んでいる。そのたくさんの犬を見て、動物の犬がじゃれ合う姿を想像してしまった。

記号学で言う「シニフィアン」(意味するもの)と「シニフィエ」(意味されるもの)、「犬という文字」と「生き物としての犬」の間には人為的な取り決め以外何の関連もない。その記号によって、出発信号下の文字から、私の頭のなかにじゃれ合う犬たちが現れる。人間とは、意味によって編み込まれた存在であると実感する。

そんな立ち並ぶ出発信号機が青に変わるのを待って、各方面に列車が進行していき、また3つの方面から列車がやってくる。

ホームの端は意外と静かである。夏空に浮かぶ雲を眺めていると、静寂といってもよい無音の世界が感じられる。その世界が、時折、列車の通過によって破られる。ポイントを渡るジョイント音とモーター音が、10秒ほどの間響き渡り、それらの音がだんだんと小さくなっていく。

多くの人を乗せた列車が3つの方向からやってきて、3つの方向に消えていく。一人一人の人間は、それぞれが異なる人生を歩んでいる。そしてその中で、たまたま今日乗り合わせたこの列車で、この駅を通りどこかへと向かっていく。

私が分岐に魅かれるのは、人の人生と重なるからかもしれない。私たちは毎日何かを選び、そしてそれ以外のものを捨てながら生きている。人の一生は無数の分岐から成り立っている。

時間という軸を線路に例えると、私たちはその上に乗っかている列車である。列車はどこかへ向かって走り続ける。その過程には無数の分岐がある。その度に1つの道を選ぶことになるが、その先はどこにつながっているのか、列車からは知ることができない。

そんな列車が分かれていく様子を眺めるのは、運命を司る神の視座を持つことなのかもしれない。分かれていく列車を、列車の内側から出なく、外に立って見ているのだ。つまり、自分の人生をもう一人の私が眺めている感覚。応援したくなる。

30分ほど、私はベンチに座ったまま、空になった缶ビールと共に線路と列車と空を眺めつづけた。至福の時間であった。人生には時々、このような時間が必要だと思う。何も考えずに、自分の姿を自分の外側に立って眺めてみるのだ。

できればこの駅のように、それほど騒がしくない駅の方がいい。知立、伊勢中川、木津、そのような駅が浮かんできた。次はどこへ行こうか。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。