概ね順調ではあるが…

結構アクティブ

過去1年間に書いた自分の記事を、ポツリポツリと拾い読みしてみる。そうすることがこのブログを書く1つの目的であるからだ。過去を決めるのは現在の心の状態であるが、記憶はいいように変わってくる。

もちろんそれでも結構なのではあるが、私の場合このブログを書くことが「モヤモヤから解放された自分」へのストーリーを作っていると思っているので、時々振り返って伏線を回収するためのネタがほしいのだ。

ブログを書き始めて3年以上、文章はコンスタントに書いてきたが、ワードプレスを扱う技術は全く進歩していない。だから、関係する記事などをリンクでつなぐといったことができない。過去の記事を読み返すと言っても、適当に「こんなことを書いたかな」といった当たりをつけて開く。

それでも、過去1年の間、適当に開く記事は気持ちが前向きになっているものが多い。全国通訳案内士の試験に向けて進んでいたり、農作業を汗をかきながら楽しんだり。コロナ禍にも関わらず、タイミングを見て仲人さんと旅行をしたり、九州や名古屋のサウナを訪問したりもしている。

自分でも、結構アクティブに行動しているなと思うことができる。

ブログにはあまり登場しないが、この1年間、かなり読書もしたと思う。2週間に1度、地元の公立図書館に行って5冊の本を借りるのがルーティーンとなった。その他、繁華街に出る度に大型書店や古本屋で2~3冊は本を買う。ざっくり計算してみると、この1年間で200冊は読んでいると思う。

アインシュタインの言った言葉で、とても心に響くものがある。

「愚かさとは…同じことを繰り返しながら異なる結果を期待すること」

5年前の私は、ずっと自問していた。

「どうしてこんなにモヤモヤするのだろう。条件は整っているはずなのに、なぜ幸せを感じられないのだろう」

アインシュタインの言葉は行動することの大切さを教えてくれた。確かにそうだ。何もしなければ何も変わらない。ずっと「なぜだ、なぜだ」と考えていても「なぜだ」はなくならない。気持ちが行動を作る作用より、行動が気持ちを作る作用の方が大きいのだ。

私はブログを書き始めた。その小さな行動が、形を変えながらだんだんとより大きな行動へつながり、今はこうやって自分で自分のことを認められるようになってきた。後から考えるとモヤモヤすることも必要であったというストーリも、完全ではないが浮かんできている。

それでもなお…

私のブログを読んでくださる読者の方々は「大和イタチは、もうすぐ分相応の幸せを手にするのか」と思われるかもしれない。私自身も過去1年間の記事を読んでいると、そう感じてしまう。

しかし、それでもなお、まだ私はその段階には達していない。

あまり記事にはしないが、漠然とした不安に覆われることは、結構ある。朝起きて隣にいる妻につぶやく。

「オレと一緒にこれからもいてくれるか?」

別に妻が私に愛想を尽かそうとしているわけではない。自分が不安を抱えていることを分かってほしい、こうやって震えそうになっている自分を見守ってほしい。そんな気持ちを込めて、この言葉を発するときがある。

その不安の根源は分かっている。何度もこのブログに書いたことだ。考えてもどうしようもないことであるが、考えずにはいられない。お釈迦様は「生きることはすなわち苦である」と述べられた。その「四苦八苦」の四苦、すなわち「生老病死」が時々私に取りついて離れない。

自分の両親や妻の両親、叔父や叔母に合う。みんな少しずつ、しかし確実に年をとってきている。私の一番古い記憶の1つの一つに、母親が私に言った一言がある。「もう30代になっちゃた」

私はもう40代後半、こうやって書いていて、またあの「生老病死」が私の中に浮かび上がってくる。死と何かを対比したときの無力感、すべてに意味が無いようなあの感覚が私を苦しめる。

そんな時、私はよく他の生き物になった自分を想像する。

例えば砂地に生息するアサリやハマグリ。誕生したときからずっと砂の中で過ごす。導管を使って海水を取り込み、その中の微生物を濾しとって栄養にする。どこが顔でどこから胴体が始まるのかよくわからない。微生物の味を感じているのかもわからない。

砂の中で生まれて、砂の中で育ち、砂の中で子孫を残し、そして砂の中で死んでいく。

私はこうして人の視点を持って砂浜の貝を想像している。頭の地図上に、海と陸とが接する海岸をイメージすることができる。地球、日本、兵庫県、神戸市、須磨区の海岸といった全体像の中での1点を想像することができる。

しかし、貝にとっては自分が埋もれている砂の中が世界の全てである。そんな世界の中で生を受け、ひたすら海水を濾し続け、成長し子孫を残し、そして生を終える。

アサリやハマグリだけでなく、そのように、人間の目から見ればただ生きて子孫を残し死んでいくだけの動物が山のようにいる、というかほとんどがそうである。

生物とはつくづく不思議な存在である。答えは出ないと分かっていても、思わず「何のために…」という問いが浮かび上がってくる。私がハマグリであったらそのような問いを持つこともできない。言葉を持った人間であるから、私はこのように自らの存在を認識し、それを命という時間枠の中に押し込もうとして苦しみを感じる。

少しずつでも確実に前へ

人間に生まれたばかりに言葉を持ち、そしてそれが生み出した概念に苦しめられる私であるが、同時に人間に生まれたことに非常に感謝をしている。輪廻転生を信じる仏教では、人間として生まれ変わることはあり得ないくらい稀なこと、つまり「ありがたい」ことだという。

言葉を持ったなら、その言葉の素晴らしい作用に目を向ければよい。「生老病死」という概念をつくるのも言葉であるし、「今だけ最高に生きる」という考えも言葉によってもたらされるのだ。

私の人生は順調に進んでいる。心の状態も良い状態である。ブログを書き始める前からは考えられないほどの違いである。しかし、このように生命の不思議さ、人間に生まれたことについて考える時、寂しさというのか虚しさというのか、妻に「オレと一緒にこれからもいてくれるか?」と言わずにはいられない不安な気持ちになる。

「いい1日を終えたな」と思い、美味しいお酒を飲んで、ぐっすりと眠り、目が覚めた朝であっても、ふとこのような不安が頭をよぎる。

地球という広大な空間の中で、私という小さな人間が、ポツリと一点にいて、何かを考えて悩んでいる。そんな時間が少しだけある。アインシュタインはこうも言っている。

「私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるか」

私がここに存在して、このようにいろいろな思いを巡らしている。そのことだけで充分、奇跡であると思う。

思いのままさまざまな場所を訪れて、本を読み、音楽を聴き、酒を飲み、人生を楽しめばよい。そして時には「生老病死」に苦しめられるのも、この奇跡の世界を生きるスパイスみたいなものかもしれない。

私は、一進一退しながらも、確実に前に進んでいると思う。

では、どこまで進めばよいのであろうか。これは難しいことであるが、私の中にはイメージがある。それは、私に「今」しかなくなった状態である。今しかないのであるから、始まりも終わりもない、そんな人生を生きることである。

「先のために」という基準で時間やお金を使い続けてきた私、過去への執着と未来への不安に縛られてきた私、そんな私にとって「今」しか生きない人生を作ることは一筋縄ではいかないであろう。

しかし、この世の中は奇跡が集まってできているのだ。そして、私にとってその中で最大の奇跡は、私が存在すること。だから、望んで行動すればそこに近づくことができると、私は考えている。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。