優先順位
「バイクが好き」と人に言う割にはそれほど乗っていない。「出かけたい」という思いと「その時間があれば語学など有意義なことができる」という気持ちが駆け引きをし、たいていは後者が勝ってしまうからである。
私は常に「何か有意義なことをしなければ」という気持ちに支配されている。私の持っている時間の中で、仕事、睡眠、家事を除いたものが私がコントロールできる部分である。その中に、読書、勉強、運動、鉄道、サウナ、酒、ブログ、という風にやることを当てはめていく。そうすると、なかなかバイクの出番がやってこないのだ。
それでもたまには一人でふらっとバイクを走らせる日がある。そんな一日を終えると「どうしてこんなに気持ちがいいのにもっとバイクに乗らないんだろう」と思ってしまう。
気持ちがいいだけではない、バイクに乗ると学ぶことも多い。一人で考える時間が多いからだ。車が少なく信号のない田舎道を走っていると、自分のなかに三重の人格が存在すると感じることがある。運転に集中している自分、風を感じながら景色を楽しんでいる自分、そして無意識の中で何かを考えている自分である。
最近では、ハンドルに設置したスマホを見ながら走ったり、ワイアレスイヤホンで音楽を聴きながら運転する人もいるが、私はエンジンと風の音を聴きながら前を見て運転するのが好きである。何も考えずにバイクを走らせると、何かを学ぶことになる。先日もそんな経験をした。
命とは
私はバイクに乗って但馬地方(兵庫県北部)へよく出かける。海や山がきれいで人口が少ないからである。バイクにのると、とにかく信号で止まりたくない。但馬地方には、自然の中、何も考えずに走り続けられる道が数多くある。
その日は日本海沿いの漁港浜坂で昼食を食べ、国道9号線を東に向かっていた。地図を見てみると、関宮という町から南へ下り大屋という町につながる道がある。道が細く曲がりくねっている。谷から別の谷に抜ける山道であると分かる。
私の乗っているのはオフロードバイクではない。仮に道が舗装されていなかったら走行が困難なのだが、その時は引き返すと決めて9号線を右折した。
大屋への道は舗装されていたものの、予想通りの山道であった。山の麓にある集落を過ぎると人の気配が消えた。道以外の人工物がない。こんな場所で脱輪でもしたら私はバイクを元に戻せるのだろうか。慎重に運転する。
少しスピードを出せると思ったら180度カーブがやってくる。それを何度も何度も繰り返す。山肌をジグザグにつたいながら高度を上げていく。両手、両足、指先に神経を集中させる。
アクセルを緩め、クラッチを切り、シフトダウンし、ブレーキをかけ、体重を移動させてカーブを曲がる。自動車では右手右足でできる作業が、バイクだと全身を使わないとできない。この自分の体で制御している感覚も、バイクの大きな魅力の一つ。
そんな作業を繰り返すうち、前方に光が見えた。この道のサミット、尾根を越える瞬間である。少しホッとする、とその時、前方左側から右に向かって何かが動いている。私はハンドルを少し右へ切り、ギリギリのところでそれをかわした。スピードを落としてバックミラーを見ると一匹の黒い蛇が路面から藪へと入っていった。
大屋への下り道をゆっくりと走りながら、私はあの蛇のことをずっと考え続けていた。
蛇の平均寿命がいくらなのかは分からない。とにかく、あの黒い蛇は生まれて、餌を食べ続けて成長し、あの日あの時あの場所で私の前に現れた。北から南へとバイクを走らせる私の軌跡と、東から西にへと道を横切る蛇の軌跡が一点で交わろうとした。
私がバイクをかわし、蛇も私の姿に進行を躊躇したのかもしれない、結果的にその交点がほんの少しだけずれた。蛇は命を落とすことなく、私もツーリングの後味を悪くすることなく、それぞれの軌跡に戻った。しかし、この出来事は私に考える種を植えた。
今どうしてる
「あの蛇は今どうしているのだろうか」と思うことがある。私は、こうして自分の家でパソコンに向かってブログを書いている。峠の頂上で蛇をひきそうになった後、無事にバイクを家まで走らせて、そこからも毎日生活を行っている。
超越者の視線から見れば、私も少し間違えたらあの日の蛇のように寸前のところで死にそうになった場面もあったかもしれない。例えば、私が通り過ぎた数十秒後に建物から私がいた場所に何かが落下したという風にだ。または、もっとミクロな視点から見れば、致命的な脳内出血が何かの拍子に回避されたということもあったかもしれない。
私はこうして今文章を書いている、すなわち今、この瞬間息をしている。
私が命を奪いそうになったあの蛇はどうなのだろう。現代を生きる人間とは異なり、もともと自然のバトルロイヤル状態に身を置くものである。ひょっとしたら、私があの日峠を下らないうちにトンビやイタチのような捕食者によって食べられたかもしれない。
それともいまだにあの山のどこかに身を横たえ、ネズミやカエルを捕食しながら命をつないでいるのかもしれない。私があの蛇を見たのは数秒間のことである。もう二度と会うこともないし、生きているかどうかを確かめる術もない。
私は奇跡を感じずにはいられない。こうして私が生きていること、そして私のまわりにある全てのものと何らかの関係を持ちながら過ごしていることを。
たまたまあの黒い蛇は、私がバイクでひきそうになったから私の心に残った。しかし、他の全てのものも原理的には同じである。私の皮膚に止まる蚊も、散歩で出会う犬たちも、電車に乗り合わせる人たちも、もっと言えば私の体に当たる風さえも、何らかのめぐりあわせによって、ある時、ある方向から、ある形をして私と関りを持つこととなる。
私の前には、運命と出会いしか存在しない。偶然と必然は、私というフィルターを通してみれば同一のものである。