大人の文章
「人は学び続けなければならない」そう思いながら生きてきた。物理的な年はとっても、学び続ける限りは若くいられるし、逆に年齢は若くても知ることへ対する好奇心を失えば老人のようなメンタリティーになってしまう。
この世の中は不思議なことだらけだ。私の目の前で日々繰り広げられる数々の現象。いつ、どんな必然性があってそうなっていて、それが何をもたらすのか、考えだしたらきりがなくなってしまう。
私と私以外との関係、そう考えている私とはいったい何ものなのか、おそらく私は知ることなく生を終えるであろう。しかしながら、私はそれを考えずにはいられない。つまり、学ぼうとせずにはいられない。
学びのための一番手軽な方法は本を読むことである。人間が言葉を持ち、その言葉を記す文字を発明したため、人間の知恵は世代を超えて受け継がれることになった。言葉が、そしてそれを記した本が現在の人間を作ったということができる。
そのようなわけで私は図書館によく行く。幸いなことに通勤途上に公立図書館があるため2週間に5~6冊ずつ本を借りて読み続けている。時間に追われた生活をしているため、サッと背表紙を眺めて、直感で5冊ほど選んで貸出機へと向かう。
先日、いつものように足早に本を選んでいると、私の目に懐かしい名前が飛び込んできた。私の足がピタリと止まった。
「鈍行最終気まぐれ列車 種村直樹」
私はその本を手に取り貸出機へと向かった。家に帰って読むのが待ち遠しかった。歩きながら40年近く前のことを思い出していた。
「種村直樹」、私にとって特別な響きの名前である。彼の書く文章は、当時小学生だった私にとって初めて目にする”大人の”文章であった。
今となってはどういう経緯でその本を手に取ったのかは分からない。小学校4~5年のころだったと思う。私は種村直樹の「鉄道旅行術」という本を繰り返し読んでいた。
小学生に入る前から鉄道が好きだった私は、それまでに多くの鉄道に関する本を持っていたが、それらはあくまで児童向けに書かれた本であった。そこに書かれていたのは、鉄道を外側から見た世界。鉄道にはこんな車両やこんなカッコイイ列車がある、君たちもいつか乗ってみたいよね、という世界観。
それに対して「鉄道旅行術」は、鉄道旅行に出かけることが自明の理として書かれた本であった。つまり「あなたはもうその年齢に達していますよ」と、読者を大人として扱ってくれていた本であった。
鉄道で旅に出たい気持ちは充分にあったが、まだ一人でそれを行うことが許されていなかった当時の私にとって、彼のメッセージはとても心強い味方であった。
オルゴール
「君はもう一人で旅に出ることができるんだ」そうやってこの本に話しかけられたことが嬉しかった。何度も何度もこの本を読んだ。そのうち、私は両親に対して一人旅の提案を行うようになった。
最初は近場の数時間旅から、特急列車を使った県境をまたぐ日帰りの旅、そして中学に入学する前には夜行列車に乗っての旅を許されるようになった。
親を納得させたのは「鉄道旅行術」から仕入れた知識であった。それだけではない。私はこの本を読み始めてすぐに種村直樹に魅了され、彼の本を探して読んだ。小学校の図書館には無い、大人に向けての本である。私は読みながら、同級生よりも少し大人になった気持ちがした。
同じ時期、叔母が私に「鉄道ジャーナル」をプレゼントしてくれた。そこには彼の記事が書かれていた。私が初めて定期的に買い始めた、児童向けではない雑誌になった。
小学校の図工の時間、木製のオルゴールを作った。蓋の面に絵を描き、彫刻刀でそこを立体的に削っていく。私が描いたのは種村直樹の姿であった。キン肉マンやキャプテン翼が流行っていた時代である。友人たちは私のオルゴールを見て何を思ったのであろうか。
私が本格的に読書の楽しさを知ったのは大学に入ってからである。それまでは、月に1~2冊程度の読書量で、今思えばもっと読んでおけばよかったと、この歳で月並みの感想を持つ。
そんな若き日の私、特に小学校から中学にかけての私に種村直樹が与えた影響は、他の著者を大きく凌駕している。言葉は思考を作り、人格を形成していく。当時の私の少なくない部分は彼によって形作られたと思う。
裏切り・無関心・そして…
高校に入ると、私は鉄道から少し距離を取るようになった。心の中では大好きであったが、人前で鉄道を語ることはなくなった。当時、鉄ヲタを取り巻く状況は今とは180度異なっていた。10代後半の私に、今のように若い女性や主婦までが鉄道を楽しむ、そんな時代がくるとは、全く想像できなかった。
私も人並みに女の子にもてたいと思った。しかし、私の中でそれは鉄道を封印することであり、種村直樹からも遠ざかることであった。今から思えば、自分を失い、物事の本質をも見失った小さな男の鉄道に対する裏切りである。カッコ悪い。
とにかく、私は鉄道について語らなくなった。ちょうどメタルにはまってギターを弾き始めた時期でもあった。同じ”鉄”であっても、ヘヴィー・メタルの方がカッコよく勢いがあると思った。メタルも大好きで楽しんだ。しかし、もう一方で私は鉄の十字架を背負いながら生きる隠れキリシタンのような心境も味わっていた。
そんな男が鉄道の世界に戻ってきたのは大学を卒業した後であった。世間の風向きは鉄ヲタに向かいつつあったこともあるが、大人になってみると、自分を勝手に枠にはめて世間体を気にするカッコ悪さに気がついた。私は鉄ヲタであることを公言したが、その私の一部を作ってくれた種村直樹に対して昔と同じように接することはなかった。
約10年のブランクが私の思考を変えていたのだ。種村直樹が得意とする「ジャーナリスティックな切り口」というより、旅と鉄道を人生に絡めるタイプの紀行文に魅かれるようになった。私の本棚には内田百閒や宮脇俊三が並ぶようになった。
鉄道復帰以来毎月買っていた「鉄道ジャーナル」も、写真だけ眺めて読まなくなり、しまいには買わなくなった。理由の一つは、種村直樹の記事であった。大病から復帰して投稿を再開したもの、何だか別人の書いたような記事に、私は病の恐ろしさを感じるとともに「人は老いていくものだ」という悲しみを刻み込まれた。
今の私なら「全盛期の彼が書きたかったこと」を想像しながら、それらの記事を読むことができたかもしれない。しかし、当時の私は1つの時代の終わりを感じざるを得なかった。彼の前にも後にもその名称は無い「レイルウェイライター」という肩書きを持つ唯一の人物、彼が筆を置く日は近いと感じた。
その後も、一般的な鉄ヲタとは距離を置き、私は私なりのやり方で鉄道と関り、それなりに楽しんできた。種村直樹のことは時々思い出してしたが、彼の文章をもう目にすることはなかった。
2014年の晩秋、何となく彼の名前をネットで検索したところ、少し前に亡くなっていた。78歳であった。大病を患ったのが2000年、最後に公に姿を現したのは2010年のことだったという。私は亡くなる前10年ぐらい、彼の動向を知ることなく過ごしていた。
没後も私は彼の文章を読むことなく過ごした。普通の書店で彼の本を見かけることは無いし、私が十代の頃に買った本は今どこなのか分からない。
そんな彼が私の中で過去の人になりつつある中、先日偶然図書館で出会った一冊「鈍行最終気まぐれ列車」を読んでみる。
ページを開くと、私が40年前に出会ったあの挿絵が目に飛び込んでくる。図工でオルゴールの蓋に彫った、あの彼の挿絵である。四角い頭、クセの強い頭髪に大きい眼鏡、懐かしさがこみ上げてくる。
適当に文章を読んでみる。どこを読んでも、読んだ当時の記憶がよみがえってくる。深名線でのジンギスカン、盛駅での国鉄全線制覇、ちくわ売りの小松島駅、北九州親子旅、確かに私は読んだ。心を弾ませて、早く大人になりたいと思いながら読んだ。
「気まぐれ列車」は彼の代名詞、そして小学生だった私が恋焦がれた旅のスタイル。それは今でも変わらない。
「鈍行」は彼の愛した列車。文中でもその魅力について数多く語られている。目的地へ向かうことに加えて、その行程にこそ旅の醍醐味が潜んでいることを教えてくれる。
そして「最終」は彼の新しい文章をもう読むことができない、つまり彼はもうこの世にいないことを示している。
私に初めて大人の口調で語りかけてきた、そんな種村直樹の文章と出会って40年が経った。その間、大人になりたいと思っていた私は、年齢だけは十分にそうなってしまった。この本に収録された作品を書いた当時の彼は、今の私よりも若い。
そんな彼の文章を読むと、こんなに年をとっても中途半端に大人になり切れていない私の姿が浮かび上がってくる。私は十代の時のように、まだ彼にぶら下がりながら生きている。
どういうことか。
私はこのブログを気分に応じて「~です・ます」「~である・だ」の二種類の文体で書いている。久しぶりに種村直樹の本を読んで感じたこと。それは、私が後者の文体を選んで書くとき、私の文章は彼の真似をしているに過ぎないということ。
ブログだけではない。彼を通じて初めて「~である・だ」の文体を体験して以来、作文でも卒論でも仕事の文章でも、私の書く文章は常に彼の影響を受けていたことに気づかされた。
憧れて、憧れて、離れて、戻ってみると、私は彼の手のひらで転がり続けていただけであった。
私はこれからも彼から学び続けるであろう。