日の当たる方
私のような昭和生まれの人間にとっては信じられないことですが、テレビが斜陽産業になっていると言われています。
テレビと並ぶメディアである新聞や雑誌の凋落ぶりは、実感としてものすごくありました。最近新聞社は発行部数を公表しなくなりましたが、定期購読が減っていることは、再利用のために出された古紙の量を見ればわかります。かつては山のように積まれていた駅売りのそれも、今は申し訳程度にしか置いていません。
書店の店頭に並ぶ雑誌の種類も量も目に見えて減っています。10年ほど前に小学館の発行する「小学~年生」シリーズのほとんどが廃刊されるというニュースを耳にしました。子どもにとって、入り口となる雑誌であったと思います。若者向けの雑誌も、文学からヤンキーまでいろいろあり楽しかったのですが、今ではすっかり影を潜めてしまいました。
このように新聞や雑誌に勢いがないことは実感としてわかりますが、テレビに関してはBSやCSを含めて、私が子供の頃と比べてチャンネル数も増えてますし、扱うジャンルも多岐にわたっていて、にわかに「斜陽化している」といわれても信じられません。
ただ、私もここ10年ぐらいは自分から積極的にテレビを見ることが少なくなってきたことは事実です。それほど面白いと思えないのです。大相撲やニュースは見ますが、バラエティーやドラマは家族が見ているのを見るぐらいで、自分から見ることはありません。
何でも昔を懐かしむことはよくありませんが、一つ一つの番組に関して言えば私の若いころの方がクオリティーが高かったと感じています。
テレビや新聞といった既存メディアの影響力の低下を裏付けるように、数年前、動画やSNSなど新しいメディアの宣伝広告費が既存のそれを超えたというニュースを読みました。
今、若者はテレビよりはるかに多い時間を動画に費やしているようです。それは私の周りを見てもはっきりと感じることができます。好きなときに、好きな場所で、好きなコンテンツを見ることができる動画。私のような昔の人間からすれば、夢のような仕組みです。もうこの流れは止められないと思います。
時代の流れに疎い私ですが、娯楽としてみる動画をいくつか持っています。その中で最も頻繁に視聴するものに生物観察系の動画「おーちゃんねる」があります。
進化?
私は時々この「おーちゃんねる」を取りつかれたように見ます。この動画サイトでは主に昆虫、爬虫類、魚類を扱います。様々な場所にそれらの生き物を採取しに行ったり、飼っているものに餌をあげる様子を見ることができます。
アリが生きたムカデの狩りをしたり、カエルがゴキブリを食べたりと、動画には食べる食べられるの関係が頻繁に現れます。こういう場面を見るとき、私は人間として生まれたことの幸運をつくづく感じることができます。
おーちゃんは「残酷でちゅねー」と生餌を与えながらも「でもこれが自然の摂理ですから」と言います。人間に飼われている虫や動物とはいえ、そこで起こっていることは自然と変わりません。目の前に餌となる生き物がいれば摂取し、それと反対の立場になれば食べられるだけです。
生と死が隣り合わせとなって無限に広がっている、それが人間以外の生き物の世界です。果たしてそこに、意思とか楽しみの感覚とか存在するのでしょうか。私はいつも不思議な感覚になりながら、画面を通じて昆虫や小動物たちの生き死にを見物します。
おーちゃんはカマキリが好きで、よく捕まえてお腹に寄生しているハリガネムシを出します。カマキリを水の中に入れると、それに反応してお腹の中の黒くて長いハリガネムシがお尻から出てくるのです。
私が子供の頃は、カマキリを捕まえてお腹を潰して出して楽しんでいました。今ではそのような残酷なことはできません。その当時、水につければ出てくると知っていたらそうしていたと思います。
おーちゃんねるの魅力は、ただ動物の生態を見せるだけではなく、そこにおーちゃんの深い知識と洞察力、そしてトータルで考えたときの生き物に対する愛情にあります。カマキリとハリガネムシの関係も、ただハリガネムシを水の中に出して終わりではありません。その生態やカマキリとの関係も同時に解説してくれます。
カマキリは通常木の上で過ごし、水辺に降りてくることはありません。しかし、ハリガネムシに寄生されたカマキリは木から地面に降り、水辺へと誘導されていきます。そしてカマキリが水に入ると、カマキリの体内から出て水の中で過ごし、そこで雌雄が出会って産卵に至るそうです。
水に落ちたカマキリは、魚に取っての貴重な餌になります。また、水中で生まれたハリガネムシの卵は、カゲロウなどの水生昆虫に取り込まれ、その体内にとどまります。卵は、カゲロウが羽化して地上に上がり、それを捕食したカマキリの中で成長しハリガネムシとなり、またカマキリを水辺へと誘導していきます。
これがハリガネムシの一生です。私は動画を見るうちに、思いもよらないことを学んでしまいました。
それにしても、カマキリを水辺に誘導するとはどのようなことでしょうか。ハリガネムシが意思を持ち、カマキリに指示を出しているとでもいうのでしょうか。まさかそんなはずはありません。ハリガネムシの出す何らかの物質が、カマキリを低い場所へと導いているのでしょう。
しかし、どうしてそのようなことになるのでしょうか。不思議なのは、それですべてが上手く回っているということです。ハリガネムシは繁殖し、カマキリは数が増えすぎず、魚は餌を得ることができます。
進化の過程で突然変異による偶然が重なり続け、それが全体にとって上手く環境に適応するようになったとでもいうのでしょうか。小さな偶然の積み重ねで、このような複雑なシステムができ上っていくのでしょうか。私はこのような現象を目の前にするとき、人格を持った創造主、つまり神の存在を考えてしまいます。
「世のなかは偶然の連鎖にしては複雑すぎるし、上手くできすぎている」この動画は私をそのような思いにさせてくれます。
人間にとってのハリガネムシ
さらに私の思考は飛躍します。
進化という名の偶然の積み重ねかもしれませんが、結果的にカマキリはハリガネムシに行動を支配されています。
それでは人間にとってハリガネムシ的な存在は無いのでしょうか。カマキリと異なり、私たちは”高度な“意思を持っています。考えることができます。行動を選ぶことができます。それにも関わらず、無自覚の内に考えさせられて、行動させられているようなもの、そのようなものはないのでしょうか。
そう考えたとき、私の中に長方形の形が浮かび上がってきました。だいたいどれも同じ大きさをしています。多くの人の財布やポーチの中に大量に入っているものです。そう、その名を「ポイントカード」と言います。
「人間にとってポイントカードは、カマキリに対するハリガネムシのようなもの」
直接人間の体内に入り込んで行動や思考を支配するものではありませんが、結果的にはそうなっているものです。実際にこのようにハリガネムシのことを考えながら人間について振り返るまで、私自身もそうでした。
寝室の財布置き場に分厚いカードケースが2つ置かれています。かつてはその中は数多くの店のポイントカードでいっぱいでした。私は買い物をして「ポイントカードいかがですか?」と聞かれると「とりあえずお願いします」という人間でした。
スーパー、ドラッグストア、理容室、マッサージ、街にはポイントカードが溢れ、それを発行していないお店は珍しいほどです。カード上にスタンプを押すものから、磁気で記憶するもの、バーコードだけのもの、形式は異なりますが大きさは同じです。
レジの前ではパンパンに膨らんだ財布を持った主婦が、必死になってポイントカードを探しています。私は寝室のケースからあらかじめ使いそうなものだけ選んで出かけていたのでそれほど財布は膨らんでませんでしたが、買い物の行動様式はこの主婦と同じでした。
初めて行く店で買い物をするとき、私は自由でした。好きな日に自分の意思で店を選び、ピュアな気持ちで商品を眺め、気に入ったものがあれば購入します。
しかし、一度そこでポイントカードを手にすると、多くのことが変わってきます。まず、行く店が限定されてきます。これは、特定の店の商品とその価格しか見なくなるということを意味します。各店にはそれぞれの戦略があるため、他の店なら普通に1つ買っていた商品を、ポイントカードの店は2つセットの方が安いからと、思わず不要の買い物をすることになります。
小売店の多くは「ポイント2倍デイ」など、”お得な”購入日を設定しています。ポイントに心を奪われた状態では、そのままポイントが付与される”普通の”日に買い物する気持ちにはなれません。私たちは余分なポイントと引き換えに、時間をコントロールされることになります。
同じものを売る店が、街の中に複数ある場合、どうしてもポイントカードのある店がまず頭に浮かびます。例えば、コロッケ屋さんが商店街に3件あったとします。「どうせなら20個買えば1個もらえるA店にしよう」そんな発想になり、同じものばかり買うことになります。
自由はあるのか
このように、私たちは「時間」と「場所」と「手にするもの」をポイントカードによって制限されることになります。自由に買い物をしているように見えて、外側から見れば見事に制御されている自分の姿が見えます。これは、カマキリがハリガネムシによって、本来近寄ることのない水辺へと誘導される姿と変わりがありません。
カマキリは最終的に水の中に落ちて命を失うことになります。それはカマキリにとっては不幸なことであります。しかし、人間にとってポイントカードに支配されていることは、あながちそうでもありません。
ポイントがたまっていく様子、それによって未来にもたらされるであろう”お得感”を心地よいと感じる人は多いでしょうし、いちいち行く店を選ばなくてよいと思う人もいるでしょう。人間は不自由さの中にでも幸福を見つけることのできる動物であります。
私個人の場合を考えると、カード入れにカードが溢れる様子、買い物をするとき「そういえばこの店のポイントカードがあった」とノイズが入ってくることが嫌で、ポイントカードを2枚だけ残して捨てました。腹下しを飲んで寄生虫を排除した状態です。
残した2枚はクレジットカードと連携した「楽天ポイント」と携帯電話とつながる「dポイント」です。買い物するとき、これらどちらかを持っているか聞かれたら出します。他のカードのことを聞かれたら「結構です」と言って何ももらいません。
ポイントカードをほぼ持たない生活を始めて、気持ちに少し余裕がでました。この間「カードを持っていれば得られたであろうモノ」を取り逃してしまったかもしれませんが、物と値段を見て買う決断をし、それらの商品やサービスを手にできれば、それだけで十分だと思います。「余分に何か得なことがある」という執着を持つことが心を乱す原因になると思うからです。
ポイントカードでパンパンに膨らんだ大きな財布は必要ありません。カードホルダーのついたマネークリップと小銭入れを持って街に出ます。これだけで「自由になった感覚」が増します。ポケットも膨らまないので、服装にとってもメリットがあります。ハリガネムシとはおさらばです。
さて、私はポイントカードに行動や商品の選択を支配されることは無くなりました。しかし、それは「ハリガネムシ的」なものの1つを捨てただけであり、そのようなものは外にも存在します。
ここまで思いが至ったとき、私の頭のなかにいつもの言葉が浮かび上がってきました。これがある限り私たちは自由を得ることができない、しかしその状態を突破する手掛かりはそこにしかない、というものです。つまり「ことば」の存在です。
結局私たちは、すべて言語に依存した存在であると思います。何を考えて、いつ、どんな行動をするのか、そのすべては言語運用による効果であり、それを作ったのは私ではないということです。
最後にポイントカードなどと比較にならないものに出会ってしましました。思えばこの記事は、メディアの不調に始まり、動画、おーちゃんねる、カマキリとハリガネムシ、人間にとってのハリガネムシという風に展開してきました。
記事のきっかけは「おーちゃんねる」を見ているとき浮かんできました。そう考えると、動画はかつての新聞やテレビに変わって、頭を耕してくれるありがたいものだと思っています。