レアな経験再び(後半)

竜馬がゆく

旅に来ていると不思議と目覚ましなしでも自然に目が覚める。この日も、前日かなり飲み食いしたにも関わらず、6時半に気持ちよく目が覚めた。隣のベッドには私の仲人さんが横たわっている。とても不思議な感覚がする。照れくささの中にも少し安心できる気持ち。レアな経験を自慢したい、そんな気持ちも混ざる。

朝風呂を浴びて、朝食会場に向かう。できればサウナがついた大浴場併設で朝食が充実している、そういうホテルに私は宿泊するようにしている。そして、そのタイプのホテルが最近増えた。しかも、時期にもよるが概して料金が安い。日本はとてもいい国だと思う。

このホテルの朝食バイキングには、何と冷やした日本酒が置いてあった。運転する私は飲めないが、仲人さんはちびりとやっている。目移りしそうなぐらいあるおかずの一つ一つは、全て小鉢に入れられている。コロナ禍の中、大皿から取り分けるスタイルからの変更可もしれないが、その手間を考えると頭が下がる。

お腹と心が満たされ、私たちは朝の福井を散歩した。

私にはこの街でどうしても訪問したい場所があった。足羽川に、福井で最も有名な九十九橋が架かる。かつては半石半木の構造で、葛飾北斎の版画にも描かれた名橋である。

その九十九橋の少し西側にかつて莨屋(たばこや)という旅館があった。現在は駐車場になり石碑だけが残っているが、この旅館こそが坂本龍馬が三岡八郎(後の由利公正)に会い、新政府について一日中語り続けた場所である。

大政奉還の後、新政府の役人を考えた時、薩長土肥に近代的な財務に明るい人材がいない。そこで以前より坂本龍馬が、財務に関する先進性を買っていた越前藩の三岡八郎に白羽の矢を立てた。龍馬は「土佐藩使者」という肩書で福井に向かい、松平春嶽に三岡八郎を新政府に入れる許可を得て、その後ここ莨屋で三岡と面会する。

私が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を初めて読んだのは大学生の時であった。以後何度か読んだが、この龍馬と三岡との再会の場面は、この歴史小説で最も好きな場面の一つである。この時代にあって稀な考えを持つ二人が出会い、日本の近代化へとつながるアイデアをこの莨屋で話し合った。由利公正はそれを明治政府で生かし、日本を先進国に押し上げる一翼を担った。坂本龍馬はここに来た1週間後、京都で暗殺された。

石碑が建つ位置から北側斜め上を眺めてみる。二人はこの旅館の二階で話し合ったという。「竜馬がゆく」には「竜馬との会談は、朝の八時から夜九時までつづいた。途中、三岡が席を立つのは、階下への厠へゆくときだけである。」と書かれている。

私の視線の先で二人が熱く語り合い、ここで新政府の財政方針が決まったと思うと感慨深い。仮に、龍馬の暗殺が一週間早ければ、日本は現在とは異なる国になっていたのかもしれない。人の上には、それぞれが持つ星があると思わされる。

莨屋旅館跡

私たちは九十九橋を渡り、足羽川左岸を歩いた。向かった先は橋本左内のお墓である。旧小学校跡地が公園となっており、その一角にお墓がある。すぐ近くには立派な銅像があり、悲運の最期を遂げた彼が郷土で大切にされていることが伝わってくる。

その公園から少し、幸橋近くにある横井小楠の屋敷跡を確認し、由利公正広場を通り、私たちはホテルへと戻った。福井でこれほど幕末を味わうことができるとは思わなかった。いい朝の散歩であった。

フェニックス

ホテルをチェックアウトし、ワビサビ号を少し北へと走らす。道路の中央の軌道を走る福井鉄道の低床車両とすれ違う。福井は規模が小さいものの、やはり路面電車の走る街は素敵である。

車を駐車場に止めて福井市立郷土博物館へ入る。福井城址に向かう前に何か予習ができたらと思ったからである。博物館は予想以上に人が多かった。特別展をやっていたからであろうか。私たちは常設展示のみを見る。

昔の地図で城下町の様子を確認する。九十九橋を渡り城の西側を北陸街道が通過している。街道は城の北西で東へと向きを変える。「だから天守閣がこの位置にある」と仲人さんが教えてくれる。江戸時代になると、天守閣は戦いのための施設から「権威を見せるもの」へと変わり、平和な時代が続くと「なくてもよいもの」へと変わっていったという。

北陸街道を行き交う人や大名に、親藩である越前三二万石の権威を見せつけた天守閣も、1669年に焼失して以来元の形で再現されることは無かった。そういえば江戸城天守閣も、明暦の大火で焼けて以来再建されていない。

私はそのような天守閣の役割について今まで考えたことがなかった。詳しい人が横にいると、物の見方が変わって面白い。

明治以前に加えて、ここでは福井の受難についての展示が興味深かった。

この街は昭和20年7月にアメリカ軍の空襲を受け、甚大な被害を出している。市街の8割が損壊し、1500人以上の死者を出した。終戦のわずか1ヵ月前である。

それから3年後、今度は福井地震がこの街を襲う。直下型の地震で、戦争から立ち直ろうとしていた街を再び破壊し、今度は4000人近くの死者を出した。

悪夢は続く。地震と同じ年、今度は記録的な大雨が降り、地震で崩れた河川の堤防を水が乗り越て水害をもたらした。数年の間に街全体の規模で焼かれて、揺らされて、水につけられたのである。もう踏んだり蹴ったりとはこのことである。

しかし、福井はそんな災難から立ち直った。聞けばここは進取の気性に富んだ場所で、事業を起こし社長になる人の割合が全国一だという。教育県で学力調査でも上位の常連である。都道府県別の幸福度ランキングでも5本の指に入る。

そんな県民性が、災害にも負けずに粘り強く郷土を立ち直らせる力となったのかもしれない。私は、ここへ来てこの街に「フェニックス通り」がある理由がわかった。

予想以上に学びのある博物館であった。売店で郷土の英雄二人、由利公正と橋本左内に坂本龍馬の加わったクリアファイルを購入する。少し気持ちが上る。

福井城址

私たちは、今は県庁となった福井城址を見学し、この街をあとにした。

静かな祈り

6月の松阪・伊賀上野に続く私たち2度目のレアな旅も終盤を迎えた。最後は、城下町ではないが鯖江に向かうことにした。再び幸橋を渡り、福井市内に別れを告げながらワビサビ号を南へ走らせる。しばらく福井鉄道の併用軌道と並走をし、やがて線路は東側へそれて専用軌道となった。

郊外は専用軌道で速く走り、中心街になると併用軌道で便利な場所まで乗り入れる。ヨーロッパで広く普及しているこのタイプの公共交通が、この福井のように日本の他の街でも導入されてほしいと思う。

中心市街地の空洞化や、高齢者の増加による交通問題、二酸化炭素の削減とさまざまな問題に対してインパクトのある政策だと私は思うのであるか、具体的に話が進んだのはここ福井と富山、それにもうすぐ開業する宇都宮ぐらいであろうか。

私の住む兵庫県でも、神戸市営地下鉄海岸線が赤字に苦しんでいる。私は工事中から「ここの輸送量は地下鉄の規模ではない。LRTにするべき」と思っていた。私の生まれる前ではあるが、もともと同じ場所には神戸市電が走っていた。

私もたまに海岸線に乗ることがあるが、乗客はいつも少ない。その度に「LRTだったらすてきな路線になっただろうに」と思わずにはいられない。建設費も地下鉄の10分の1。低床車両を使えば車いすや高齢者にも優しい。何より私的には、街を走るLRTは絵になる。私は並走する福井鉄道の低床車両にエールを送りながら南へ下った。

せっかく福井に来たのだからと、この日の昼食はヨーロパ軒のソースカツ丼を食べようかと二人で話をしていた。17年前に私が家族で来たときも片町の本店で食べた。カツのきめ細かい衣とウスターソースの相性の良さが舌の記憶に残っている。

ちょうど鯖江にも支店があることを知り、私たちは昼過ぎにそこへ向かったが、店の前には「本日休業」の看板が。定休日は火曜であると調べて安心していたのだが、人生も昼食も思い通りにいかないことがある。

さてどうしようかと周りを見渡すと道の反対側に「8番らーめん」の看板が見える。懐かしかった。石川発祥で、北陸三県となぜか岡山を中心に展開しているラーメンチェーンである。私の住んでいた街にもかつて店があり、子供の頃によく食べた。

仲人さんにも快諾していただき、私たちはそこでラーメンを食べた。目の前で起こることは、最初から決まった価値があるわけではなく、見方によってその意味を変える。簿記の仕訳のように、たいていの場合は借方の反対側には貸方の勘定科目が存在すする。この日、私はソースカツ丼を食べ損なった代わりに、10代の頃に味わった野菜ラーメンに再会できた。

この度最後の訪問地は鯖江市の誠照寺(じょうしょうじ)にした。北陸地方は浄土真宗の盛んな地域である。とりわけ福井には真宗十派の内、四つの本山がある。前回の旅で、津の一身田にある真宗高田派本山専修寺に、私は圧倒された。

今回の旅も、時間が許せば吉崎やすべての本山を訪問して見たかったのであるが、何分この二人旅のテーマは「城下町をめぐる」であるためそちらを優先して、誠照寺のみ旅の最後に訪れた。

ここを私が選んだのは「木造建築として福井で最大」ということと、山門に「左甚五郎作の龍の彫刻」がみられるためである。

寺の南側に車を止め、歩いて山門へと向かう。今までに何度かヨーロッパを旅したことがある。旧市街地の中心には必ず大きな教会がある。訪れた教会の姿を思い浮かべるが、門のあった教会を思い出すことができない。たいていは隣接する広場と入り口を接していて、人々が集う世界と地続きのような気がする。

それと比べて日本の神社仏閣には、俗世界との間に明確な境界線が存在している。神社でいえば鳥居、そしてお寺では山門がこれに当たる。大きな寺院になるほど、これでもかという勢いでその境目を強調してくる。

私が見上げる誠照寺の山門も巨大な屋根を有し、その下には荘厳な彫刻が施されている。数多くある彫刻の中で、門の左右に睨みをきかせている二頭の龍が左甚五郎の作であると伝えられている。

気持ちを引き締めて門の敷居を跨ぐ。砂利の敷き詰められた広大な空間が迎えてくれる。門の正面に位置する御影堂へ向かう。不思議なことに、境内には人の姿が見られない。お寺の関係者もいないようである。靴を脱ぎ、木の階段を登り、御影堂の中に入る。

漆黒の中に黄金色の世界が広がる。中央に坐する親鸞上人を中心に、欄間、天井と装飾が埋め尽くす。黄金色にも関わらず落ち着いて見えるのは、背景が漆の黒であるため。

私は畳の上に座り、何も考えずにしばらく過ごす。街の真ん中にいることが信じられないくらい静かだ。この巨大な建築物の中にいるのは、見える限りでは私たち二人だけだ。私は神社仏閣が好きな人間。神社や寺にいると心が落ち着く。そんな中でも一番心が落ち着く場所はどこかというと、仏様の前の畳の上。それも静かであればあるほど心が整う。

私は浄土真宗の檀家ではないが、親鸞上人とこうして静かに過ごす時間が、たまらなくありがたく贅沢なものに感じられた。いったいこの場所に、何百万の祈りが詰まっているのだろう。私は静かに手を合わせ、一つの祈りを加えた。

二度目のレアな旅も終わりをむかえた。仲人さんと知り合って20年以上の月日が経つ。そのような長い年月を経たのち、ひょんなことから半年で二回も一緒に旅をすることになった。

人はいろいろなめぐりあわせの中を生きている。昨日まで考えられなかったことが、ちょっとしたことで起こったり、また当たり前のように続いていたことが、突然終りをむかえたりする。

兵庫へ帰る車内で次の城下町ツアーの話になった。「このツアーの本が書けるまで続けたいです」私は言った。仲人さんもまんざらではなさそうだ。

未来は何が起こるのかわからない。このレアな城下町ツアーも十回目を迎えることになるのか、またはこれが最後になってしまうのか、誰も言うことができない。私にできることはこのめぐりあわせに感謝して、今を一生懸命に生きること。

仲人さんを家に送ると奥さんが私に言った。

「今回も遊んでいただいてありがとうございます」

そうか、私は仲人さんと遊んでいたのだ。

どんなことでも、見方を変えれば遊びのようなもの。心の持ち方次第で遊びとそれ以外との境界線が消える。実際に、城下町と博物館と史跡と寺を訪ねた今回の旅。一般の人から見れば勉強でいっぱいの真面目過ぎて固い旅。かつての私なら息苦しくて楽しめなかったであろう。

しかし、今回は奥さんの言うように私はずっと遊んでいる感覚であった。人生って面白いな、と思った。これからも私はずっと遊び続ける。私は大学の頃よく読んだ作家でカヌーイスト、何より遊びの達人の言葉を思い出した。

いつでも遊びに励め。人生には締め切りがあるのだ。

野田知佑

これからも、私は仲人さんとのレアな遊びを続ける。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。