本を読め

疲れてしまった

人間に割り当てられている時間は誰にとっても等しく、時計の針が同じだけ回れば同じ時間が過ぎていく。その間、人は”何か”を行っている。暇でしょうがないという人であっても、家でボーッと座っていたり、街をぶらぶら歩いていたり、息をしながら何らかのことを行っていて、本当に何もしないということはできない。

私たちの一生は生まれ落ちた日からあの世に旅立つ日まで「何をして過ごしたか」の積み重ねに過ぎない。人以外の動物のほとんどは、その間ひたすら餌を食べ、再生産活動に専念する。

動物にとって生きる意味とは、個体として「生き続けること」そして種としても「生き続けること」この二つに集約されると思う。私はそのことを「仁義なき戦い広島死闘編」で千葉真一が演じる大友勝利というヤクザのセリフから学んだ。

人間はその進化の過程で「生存」と「再生産」を他の動物と比べて容易なものにした。もちろん貧困にあえぐ地域の人々にとっては、現在もこの二つは生活のほとんどを占める。しかし、一度この二つが満たされれば、人間はマズローの欲求段階でいう上位の部分を考え始める。

人間は「うめなければならない時間」を持ってしまった動物である。それは何のためなのか。承認されるため?自己実現のため?よくわからないが、その時間の過ごし方は幸せの感じ方と大きく関係していると思う。

その自由な時間の過ごし方に悩まされている男がいる。肩の力を抜いて、もっと自分の心と体の声を聞きながら時間の過ごし方の選択をする、それがなかなかできない。外ならぬ私のことである。

ここ2か月ほど、私は多忙な日々を過ごした。休日に出勤することも多々あったし、月に一度は実家に帰った。プライベートでもイタリア語検定があり、その他いろいろな用事で休日がつぶれていった。

そのような中で私がここ二年ほど自分に課している課題が重く感じられるようになってきた。一昨年の秋からほぼ途切れることなく続いてきたことであるが、最近ではそれが中途半端になっていた。それは「図書館で本を借りて読むこと」である。

地元の公立図書館で私は一度に5冊の本を借りる。貸出期間は二週間である。その間に私は借りた本を読み、二週間後の返却と共に新たな5冊を持って帰る。私はこれを二年間にわたって続けてきたのだ。

きっかけは児童書

もともと図書カードは10年以上前に作成し、たまに本を借りることはあったのだが、このような定期的な形になったのは二年前に始めた勉強がきっかけだった。

私はその年、自分の英語の力が知りたくて、生まれて初めて実用英語検定を受けた。合格した後、いろいろ調べて見ると英検1級所有者は全国通訳案内士試験の英語筆記試験が免除になると知った。

私は「これだ!」と思い、その試験の残りの科目である日本史や地理の勉強を始めた。その際、非常に役に立ったのが児童向けに書かれた本だった。歴史や地理をはじめ、世界遺産や日本遺産についての解説集、遺跡や芸術作品の写真集など、多くの知識を私はこれらの本を読むことで身につけた。児童用とはいえ、中学校向けになるとかなり読み応えのある内容になっているのだ。

昨年12月、全国通訳案内士の二次試験を受け合格することができた。試験が終わってもこの図書館通いのルーティーンは続いた。もう児童書は借りなくなったが、適当に背表紙を見て5冊手に取ると貸出カウンターに向かった。もともと、書店には毎週通っている。書架の間をぶらぶらしながら、背表紙と目が合う瞬間は何とも言えない。

手にする書籍は読みやすいものがほとんどである。心理、紀行、経済、語学といった棚から借りることが多い。カバンの中に1冊入れておき、通勤電車の中で読んだり、枕元に置き寝る前に少し読んだりする。

あまり頭に入ってこない本は飛ばし読みをするか、しばらく置いてもう一度開き、それでも読みたくなければ読むのをやめる。逆に心にひかかる部分には付箋を挟んでおき、あとで「私デスノート」に要点をまとめることもある。借りた本から仕事のヒントが浮かんだり、大切にしたい言葉に出会ったりすることもある。

このように、私の生活には常に図書館の本が欠かせない状態が続いていたのであるが、ここ数か月のように忙しいと、楽しいはずの読書も負担となってくる。

「ああ今回も飛ばし読みをした本が多かった」そういう状態が続くと、一度リセットして図書館から離れた生活をしてみたくなるのだ。

少し前の日曜、私は「少ししんどくなってきたから、本を返したら手ぶらで戻ってくるわ」と妻に言い図書館へ向かった。妻も私の「~しなければならない病」を少し心配していたようで「いつでも借りれるやん。もっとゆっくりしたら」と言ってくれた。

宿命なのか…

5冊の本が入ったトートバックを肩にかけ、図書館への道を足取りも軽く進んでいく。「明日からは本を読む代わりに映画でも見ようか」そんなことを考えながらの道のりである。

本のせいだけではないが、私はまともに映画も観ない生活を送ってきた。映画だけではない。ドラマも音楽もカラオケもゲームも、人々が何も考えずに楽しむ娯楽を私は素直に楽しむことができない人間になっていた。その理由はこのブログに散々書いてきた。

語学、読書、勉強、仕事、家事、一日を”有意義”に過ごすことの呪縛に取りつかれた私は「~しなければならない病」に感染し続けていて、まだ完治したわけではない。

しかし、症状はだいぶんよくなってきている。少なくとも”有意義”にすごせなかった日の自分に対し、認めてあげる気持ちを持ち始めている。たまには「~ねばならない」の反対をやってみようか、と思う日もある。

私は図書館のカウンターで返却手続きを行った。あとはこの5冊を返却台に返せばおしまいだ。少し余裕のある生活がスタートする。背表紙に張られた番号を見ながら返却台に借りた本を置いていく。とその時、私は目が合ってしまった。

「バカになるほど本を読め」(神田昌典)

「本を読んだら自分を読め」(子飼弾)

しばらく本と離れて楽をしたいという私の心を見透かしたかのように、返却台に置かれた2冊が私に視線を送ってくる。もうどうすることもできない。

私は「えーい」とその2冊を掴むと、図書館の奥へと進んでいった。どうせ借りるなら、いつものように5冊借りたいのだ。視線の合った3冊を書架から抜き取り貸出機へと向かう。出る時とほぼ同じ重さになったトートバックを手に私は家へと到着した。

「やっぱり無理だった。アカンやつと目が合った」私は妻に言った。

図書館で二週間に5冊を月2回。加えて書店で月に5~6冊購入、中古書店で新書を中心に月3~4冊。私は少なくとも年間に200冊は本を手にする。

しかしながら、先日目の合った二冊の本によると、そんな私の数字は「まだまだ」である。”バカになって””自分を読める”ためには、更なる読書量が必要である。

特に私はこうやってブログという媒体でアウトプットを行っている。立花隆が言っていたと思うが、アウトプットはその数百倍のインプットの上に成り立っている。

あきらめるとしようか。映画やゲームやドラマはいいから、これも宿命だと思って読書をしようと思う。ただ、ここ数か月のように多忙なときは、体と心に染みわたる甘いお菓子のような本を読むのがよいだろう。

全国通訳案内士の勉強をしていた時のように、児童書のコーナーに行くのがよいかもしれない。今はなぜか、息子たちが子どものころよく読んでいた「かいけつゾロリ」が読みたくてたまらない。

「まじめにふまじめ」

私に今一番必要な栄養素かもしれない。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。