静かな夜
「お父さん、少し外に出てきていいか」
お酒が入り、少しいい気分になった私に次男が尋ねる。
「どこ行くの」
「駅を見てみたい」
「気をつけてな。オレも後で行くわ」
2021年の暮れ、私と次男は二人で北海道を旅していた。わけあって、この年二人で三度目の北海道である。この日、私たちは千歳から名寄を経由して音威子府まで来ていた。
「おといねっぷ」
不思議な響きをもつ町である。小学校低学年で時刻表を読み始めて以来、私はこの道北の小さな鉄道の街に憧れ続けていた。遠い北海道のその真ん中にある旭川から列車に乗り換え、宗谷本線で北上して日本最北の街を目指す。
その途中に稚内までの経路を二つに分ける駅があった。「こんな場所で分かれてまた稚内の手前で合流するんだ」子供心に思った。「いつかここに行ってみたい」そう思っているうちに音威子府から南稚内までの天北線は廃線となった。寂しかった。
天北線が廃線となり鉄道の要衝としての機能は失ったが、音威子府に行きたいという思いは持ちつづけていた。では、なぜ廃線から三十年間も行かなかったのだろう。自分の心に耳を傾けることと、仕事や家族、その他自分が自分の中に課した縛りとのバランスがうまく取れなかった。バランスを自分の心の方に向けるために考えることを面倒くさいと思ってきたからなのか。”Tra il dire e il fare, c’e di mezzo il mare.”(思うと行うの間には大海が横たわる)とイタリアの諺にある。
そんな私をこの小さな街に連れてきてくれたのは次男であった。ここでは多くは語らないが、数年前から、北海道は彼の生きる希望になっていた。
彼も私と同様に音威子府の響きに魅かれた。親子である。半分は私からやって来たのでそれほど不思議がらなくてもよいが、それでも私が三十年もの間保留にしてきたこの街への滞在を、彼が簡単に実現させてくれたと思うと、目に見えない運命というか力の存在を感じる。
この年、この町へは二度目の訪問であった。前回は春先であった。町は雪に覆われていたとはいえ、あたたかい日差しで徐々に解け始め、真っ白の中にも穏やかな印象を受けた。次男と二人でそれほど広くない町を歩き回った。
この時は師走の終わり、街はすっぽりと粉雪に覆われていた。雪のせいか夜の町は予想以上に暗く、そして静かだ。何もしないままここにいたら命が尽きてしまう、町の真ん中にいるのにそんな恐怖を感じるほどである。外の気温は10度を超えているという。北海道ではこの時期、気温にマイナスをつけない。昼夜を問わず0度を上回ることがないからだ。
残ったお酒を飲み干し、酔ってはいるが防寒具を忘れることなく身につけ、私は次男のいる音威子府駅へと向かった。
それにしても静かだ。人の話し声も車の音も聞こえてこない。ブーツで雪を踏みしめる音だけが耳に入ってくる。立ち止まると無音の世界。静かすぎて「シーン」という音が聞こえてきそうなくらいである。
二人で…
降り続ける粉雪の中をゆっくりと駅まで歩いて行く。こんな雪は兵庫県では見られない。気温が低いせいであろう、肩に積もっても服が濡れることなく、振り払うとスッと落ちてしまう、そんな雪だ。
次男は無人の駅舎の中にいた。町の中心とはいえ、一日の乗降客が100人に満たないこの駅は、夕方を過ぎると職員がいなくなる。それでも駅舎は解放されており、石油ストーブのおかげで中は温かい。
6時以降、この駅にやってくる列車は普通・特急がそれぞれ上下1本ずつの合計4本に過ぎない。ストーブのファンしか聞こえない静かな時間が流れていく。
体が温まると外に出る。
二人で駅前の通りを国道まで走る。車道の上に二人の靴の跡が並ぶ。次男の足跡の大きさはもうほとんど私と変わらない。かつて二人の息子を寝かせる時、私は左右の肩に二人を担いで寝室まで運んでいたことを思い出した。”ついこの間”までそんなことができていた。
走った道を駅へと戻る。新しい雪で足跡が消えかけている。形のあるものは常に変化を重ねていく。全ての存在は、何か大きな流れの中にあるような気持ちになる。
しばらくストーブの風で温まり、今度はホームの方へ向かう。することに意味はない。ホームを端から端まで歩いたり、雪を蹴ったり、雪玉を作って電柱めがけて投げたり、ホームの向こう側の暗闇をじっと眺めたり。
たまに会話を交わすが、それぞれ思い思いの過ごし方で、この駅での時間を楽しむ。宿から出て、もう一時間は経つであろう。私たちは大したことは何もしていない。しかしこんなにワクワクしながら時間をすごしているのは、ここが駅であるからであろう。
例えば、私たちが同じような町の夜のスーパーの駐車場にいるとしたら、こんな気持ちにはならないであろう。ここは駅であり、私たちは列車に乗ってきてこの場所にやって来た。誰かが、何らかの気持ちを持って、こことは違う場所からやってくる。そしてここからも別の場所へと誰かが旅立っていく。止まっているように見えても流れの中にいる、それを感じさせてくれる場所。
稚内方面から「特急宗谷」がやって来た。コロナ禍で移動を控えているせいか、客の数はまばらだ。それでも動きも音も無い「静の世界」に現れた4両編成の列車は眩しい光を放っていた。
私たちはその光をずっと眺めた。南へと列車は去っていく。エンジン音はすぐ雪に吸い込まれて聞こえなくなり、赤いテールランプも降る雪の中に消えた。
再びやって来た静寂の中で、私は次男と言葉を交わした。家の中での会話とも、車の中でのそれとも違う、ここでしかしないような取り留めもない話。かつては多くの人で賑わったこの駅で、そんな二人の話声だけが雪の中に吸い込まれていく。
私たちは、飽きもせずに二時間もの間ここにいた。私の酔いはすっかり冷めてしまったが、気分はよかった。
大きな流れの中で
私がこうして音威子府駅で次男と静かに時を過ごしていた時、長男は家で必死に勉強をしていた。大学受験が迫っていたのだ。受験生をしり目に北海道を旅行する親はどうかという人もいると思うが、長男の大学進学は私の望んだことではない。
私は子どもたちの勉強について何も言ってこなかったし、これからも言うつもりはない。やりたければ応援もするし援助もする。したくなければそれもいい。ただ、学ぶことは楽しい。私はいつもそう思って学んでいる。
そんな私の姿を見てなのかどうかわからないが、長男はこの時期成績が急激に伸びて、そこそこ難しい大学に入学した。今は家を出て一人暮らしをしている。彼とは二人で旅行をすることはないが、音楽を始め共通の話題は多い。まだまだ未熟ではあるが、だんだんと親子から大人同士の関係に変わってきているのを感じる。
音威子府での静かな時を過ごした旅行は、次男と二人での最後の旅行のつもりで旅をした。彼はしきりに一人で旅をしたがっていた。それはちょうど彼と同年齢の頃の自分の姿を見るような思いだった。
実際に次男は自分でいろいろなことを学び、一人旅を行う力を身につけていた。そんなわけで、高校に入学した今年4月以降は計画を立てさせて一人旅を許可した。彼はカゴから放たれた鳥のように、何度も旅にでた。鳥取、三重、長野と距離を伸ばしながら一人旅をする彼は、家へ帰ってくるたびに大人になっていくのがわかる。
どうやら私の父親としての役割も変化を迎える時が来たようである。人は一日一日成長していく。時刻表を愛読し「いつになったら一人で旅ができるのだろう」と思っていた少年の私は、今や同じ思いを私にぶつける息子の父親となった。
何十年という時が一瞬で過ぎ去り、その間体は変化しても、心の中は変わっていないような気持ちがする。今でも私は、ホームで列車のアナウンスが聞こえれば興奮するし、弁当の中でも駅弁は特別な存在だと思うし、旅に出る前の夜はなかなか眠れない。
このまま変わらないまま、私は今までと同じようにこれからも何十年という時を過ごすのだろうか。それは無理であろう。心は変わらなくても、体には限界があるからだ。少年時代の私から今までと同じ時間をこれから過ごすことが考えられない、私はもうそんな場所まで来てしまったのだ。
鉄道の要衝であったということ以外、音威子府に行きたいと思った理由がもう一つある。今はなき鉄道紀行作家、宮脇俊三がその文章の中で度々称賛していた「常盤軒の駅そば」の存在である。
宮脇氏だけではない。雑誌であってもテレビであっても、この駅について触れられる時、ソバの実を皮ごと挽いて作られる真っ黒なそばは欠かせない存在であった。
その名物のそばを最後まで守っていたのが、創業者から三代目の西野守さんで、その西野さんは、私が次男と最初にこの駅に降り立つ1月半前、2021年2月に永眠されていた。
多くの人に愛された駅構内の常盤軒は閉店したしたが、施設はそのまま残され、そこには西野さんの写真が飾られるメモリアルコーナーとなった。カウンターに置かれたノートには数多くの感謝の言葉が記され、彼の人柄とこの駅そばの存在の大きさを示している。
一枚の写真に私の目が釘付けになり、涙が溢れそうになった。そばを調理する晩年の西野さんの写真の隣に、もう一枚の白黒写真が飾られていたのだ。
SLにけん引された旧型客車の止まった雪のホームを、山のように弁当を載せた台を、長靴を履いた一人の青年が担いで歩いている。見た所、二十歳前後の西野さんの姿である。
芯が強そうにも見えるが、どこか恥ずかしげでもあり、何か自分のあり方に迷っているような、そんな印象を受けた。私は未だにそれを引きずっているが、青年期によくありそうな不安が入り混じった表情に私には見える。
写真には何人もの国鉄職員が写っている。この駅が最盛期を迎えている頃に取られた写真であろう。
西野さんは、弁当が飛ぶように売れた最盛期から、利用客が100人を切る単なる田舎の駅になるまで、ここで弁当を売り続け、そばを作り続けてきた。若き日の彼は決断をし、ここで半世紀以上過ごし、そして人生の幕を閉じた。
そして、それは誰もが経験すること。人は生まれ、生き、そして去ってゆく。私も、妻も、長男も、次男も。そのことだけは、人類の誰にとっても例外がない。私たちはひたすら「いつ終わるかわからない今」を積み重ねていく存在にすぎない。
その中の一つの「今」を、私はここ音威子府で次男と一緒に過ごすことができた。
彼に一人旅を許可した今、もう一緒に旅することはないと思っていた。予想通り、次男は今年の冬も北海道を旅したいと言い出した。もちろん一人でである。
しかし、旅の計画を立てるうち車での移動が必要な場所がでてきた。そんなわけで、思いがけず今年も二人で北海道に行くことになった。
私たちは今日、神戸空港から千歳へ向かう。