特別なCD屋さん
こんにちは、大和イタチです。
自分で自分のことを暗い性格だと思います。
基本的に悲観主義者なんです。
物事の楽しいことを見つけようとする前に、物事の終わりを考えてしまいます。
どうしてこのような性格になってしまったのか、よくわかりませんが、ペシミスティックな思考形式は、私の中にモヤモヤを絶えず作り出している厄介なものだという自覚はあります。
「物事の今を純粋に楽しめばいいのに、お前はどうして終わった時の虚しさや喪失感ばかり考えて、今に集中できないんだ」心の中で自分にそう叫ぶことが多々あります。
人間にとって究極の物事、「生きる」ということの終わりもよく考えてしまいます。
だから、仏教にも興味があり、お寺にもよく行きます。
仏様を拝んでも、私の悲観主義が治るわけでもありませんが、一人の寿命の何十倍もの間、数百年の長きに渡り、人々が大切に守ってきた「生と死とをつなぐ場所」には、モヤモヤの心を一時的であれ癒してくれる空気があります。
主題はお経とメタルでした。すこし話がそれましたが、もう少し我慢してください。
そういうわけで、仏閣の多い京都にしばしば行きます。
そして、その京都の七条通りにあるそのお店にもたまに立ち寄ります。
書店と同様に、日本全国でCD屋さんがその数を急速に減らしています。
個人経営の小さな店舗は言うに及ばず、街の一等地に位置する大手の販売店も、店舗の閉鎖・縮小が続いています。今や、音楽はCDを介して聴くものではなくなりつつあります。
そんな中、七条通のその店は、小規模な店舗ながら元気に営業を続けています。その秘密はコンテンツにあります。
邦楽とお経のCDが半端なく充実しているのです。殆どそれらの専門店と言っていいほどです。
市原栄光堂という、そのレアな店で買ったお経のCDをたまに聴くことを書きたいだけでしたが、ここまで長くなりました。以下はそのお経とメタルの関係です。
ブラックサバス・カテドラル・勤行式
私のi-podに入っているのは、「浄土宗勤行式(節付)」というCDです。市原栄光堂で購入する時、「節つき、節無し?」と聞かれて、意味が分からず戸惑っていると「お客さん、お寺の人じゃないの」「お家で流すのなら節つきの方がいいかも」と言われて購入したものです。
(お寺の人と間違われたことは、私にとって少し嬉しい経験でした。)
今となっては節つきを買ってよかったと思っています。お経だけあってそれほど展開のある節ではありませんが、その微妙な節の変化が私の心にメタル的な要素を喚起してくるのです。
この浄土宗勤行式から私の心に喚起されるメタルバンドは、主にブラックサバスとカテドラルになります。スレイヤーも少し出てきます。
オジーオズボーンのいた初期のブラックサバス、楽曲はシンプルで重く、他のアーティストとは異なるネガティブさを前面に出した世界観。デビューアルバムの1曲目、その名もバンド名と同じBlack Sabbathは教会の鐘から始まり、ゆっくり単調な重いリズムが続いていきます。
それは、まるで勤行式が「りん」の後に続き、ゆっくりと読経される様に似ています。
ブラックサバスの曲は全般的に、単純だけど中毒性のあるリフを重ねた上にオジーの高いトーンの声が乗っかってくるという印象を私は持っています。オジーは唯一無二の声を持っており、普通に歌う時はお経との親和性はありませんが、低いトーンの声で変化の少ないメロディーを歌う時、私の中で勤行式とクロスオーバーしてきます。
20代のころ、カテドラルのアルバムを何枚か買いました。正直言って、聴いてて面白くありませんでした。妙にゆったりとした、重くて単調なリズムが退屈で、疾走パートを期待するも空振りで、若き日の私はすぐに聴かなくなってしまいました。
それから十数年、不惑を超えてからたまたまForest of Equilibrilumを聴く機会がありました。ぶっ飛びました。イントロに続く超低速で重苦しいリフが、ザクザクと心に入ってきます。
ベースとギターのアンサンブルがルート音をゆっくりと重厚に刻んでゆきます。その振動がとても気持ちいいんです。
速くて激しいだけがメタルではありません。この重々しいリフに私の想像力は刺激され、その対角線上にあるものを際立たせます。
「物事を額面通りに受け取るな。イマジネーションを働かせなさい。」そう訴えかけてくるようです。
そしてこのリフと、最後に変化する音程が、勤行式の最初「香偈(こうげ)」「三宝礼(さんぽうらい)」から連想されるのです。その後「四奉請(しほうせい)」でもスローなテンポは変わらず、「懺悔偈(ざんげのげ)」で少しテンポが上がりコーラスも厚くなったと思うとすぐに「十念(じゅうねん)」へ入ります。
この展開は、盛り上がったところで楽器の演奏が一斉に終わり、最後、静かにボーカルが囁くように歌い曲を終えるイメージです。
この十念は何度聴いても心がしびれます。CDでもそうですが、法事の時などに生で住職の十念を耳にすると、こちらも唱和せずにはいられません。
南無阿弥陀仏×4回+南無阿弥陀仏×4回+南無阿弥陀仏×2回の構成になっています。特に8回目の南無阿弥陀仏でスッと節が上がり、9回目でゆっくり、最後は消えるような穏やかさで念じるところがサビと言える部分で、グッときます。
その後「開経偈(かいきょうげ)」に続き、「四誓偈(しせいげ)」へ入りますが、スピードも上がり木魚も入ります。木魚の心地よいリズムがスレイヤーの”At Dawn They Sleep”のドラムを連想させます。(私だけかもしれませんが…)
このような感じで、勤行式は単調に見える中にも、様々なバリエーションを宿しながら50分間続いて行きます。
それは丁度、音楽CDと同じ長さです。アーティストがコンセプトを元にして、アルバムにその世界観を映し出すように、勤行式はお経そのものだけに確固とした世界と目的が定まっているはずです。
不勉強な私はその中身をほとんど理解していませんが、歌詞を意識しながらメタルを聴くとより深く理解できるように、お経の意味を学べば、また勤行式の聴き方も変わってくると思います。
微妙な共通項を増幅させる
ブラックサバスやカテドラルが、お経を意識しながら楽曲を作ったわけではありませんし、勤行式のレコーディング時にメタルが意識されたわけもあろうはずがありません。
この両者を聴き、その共通項に気がついたのは私の心であり、おそらく他の多くの人が同様のことを行っても同じ結果は出てこないでしょう。
今までの生涯をかけて作り上げてきた心の構造が、メタルとお経を部分的に結び付け、そしてお経を聴くとき、私はメタルで感じるような興奮を感じます。
微細な共通項を増幅させてゆくと、「これってあのパターンに当てはまるかもしれない」という経験が増えてゆきます。その増幅するチューナーの力が強い人が、一見無関係に見える事象同士に関係性を見出し、運命を強く感じることのできる人だと思います。
私は、たまたま限定されたメタルとお経の間に関係性を見出し、そのことを楽しみましたが、私の周りにはまだまだ気づいていない関係性に満ち溢れていると思います。
幸福の一つの形は、そのような隠れた関係性を見つける最初の発見者になることかもしれません。それは、恋愛に非常に似た構造であると思います。
レアなCDショップから始まり、メタルとお経、脈絡も薄く取り留めもない話になってしまい申し訳ございません。
今日も私の心を表したモヤモヤ文章になってしまいました。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”全く異なる2つのものが、予想外に結び付きそうになる時、心が躍る。”