母の声

久しぶり

3年ぶりに実家に泊まった。日曜に農作業を手伝うための帰省であったが、午前中の時間を有効に使うために前日夜に帰宅したのだ。母の作った料理をあてに焼酎の湯割りを飲みながら両親と話をする。

私が実家に到着した時間が遅かったためであろう、父親はもう飲み終わってお茶をすすっている。昔の彼ならまだ酒を飲み続けていた時間である。こんなことからも親が歳をとってきていることを感じる。

親だけではない。私も妻も子どもたちも、すべての人は同じだけ年を取り続けている。「年を取る」には二種類の意味がある。「時間が経過する」ということと「老人らしくなる」という意味である。私が親を見て感じたことは後者だ。

人が成長する過程は「できること」を増やしていく道のりである。すべてのことを親に頼っていた幼少期から私はできることを増やし、誕生から二十数年経ち自分の力で暮らし始める。逆に親は老化と共に自分でできることの数を減らしていく。

免許を返納した妻の両親のもとへ定期的に立ち寄り、持ち運ぶのが重いものを中心に買い出しを始めたのは5年ほど前であった。今は私の両親のもとへも帰ることが多くなった。父親にとってきつい農作業が現れ始めたからである。

食事を終えると三人で仏間へと移動する。仏様の前で般若心経を唱えるためだ。実家のこの習慣は祖父が亡くなったときに始まった。祖母が中心となってお経を読んだ。今はその祖母も鬼籍へ入ったため母親が仏壇の前に座る。私もいつの間にかこのお経を唱えるようになった。

光明摂取御和讃

般若心境を二度繰り返し、私と父親は居間へと戻る。母親はまだ仏間にいる。やがて鐘の音と共に母親が歌う声が聞こえてくる。「光明摂取の御和讃」という御詠歌だ。祖母が亡くなって以来母親の日課になっている。

祖父が亡くなったとき、地域の人が家にやってきて御詠歌を歌っていた思い出がある。おそらくその中にこの歌も入っていたであろうが、当時の私の印象には残らなかった。その時私はまだ高校生だった。

10年前の叔父の葬儀の後、位牌の前で一同がこの歌を唱えた。私の心は激しく震え、涙を流さずにはいられなかった。二十数年の時の流れが私の無常を感じる心を育てたのであろうか。その私の感じる無常観は今でも日ごとに高まっている。私の感じるモヤモヤも、最終的にはそこに行きつく。

それにしても、なんと美しくも切なく、そして安らかな歌なのだろうか。

人のこの世は長くして 変わらぬ春とおもいしに

無常の風は隔てなく はかなき夢となりにけり

あつき涙のまごころを 御霊の前に捧げつつ

ありしあの日の思い出に 面影しのぶも悲しけれ

されど仏の御光に 摂取されゆく身にあれば

思いわずらうこともなく とこしえかけて安らかん

南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

南無阿弥陀仏 阿弥陀仏

浄土宗 光明摂取御和讃

長いようで人生は短い。どんな人にも死は隔てなくやってくる。身近な人を失うことは思い出が強い分だけ悲しみも多い。しかし、死ぬということは仏様のもとへ行くということ。長い時間をかけて安らぎの世界を得るということ。阿弥陀仏に身を任せなさい。

このような内容を歌っているのだと思うが、最後の「思いわずらうこともなく とこしえかけてやすらかん」に疑問点がある。このメッセージの宛先は、死にゆくものかまたは残されたものか、どちらに向かっているのだろうか。安らぎを得るのはどちらなのだろうか。

仏に摂取された後安らぎを得るのだから死者に向けたものかもしれないし、悲しみを感じているのは残されたものなので、そこへ向けて心配することはないと言っているのかもしれない。

考えるうちにどちらへ向けたメッセージであってもよいと思った。残されたものもいずれは死にゆく身であるからだ。それそこ無常の風は隔てることがないのだ。阿弥陀仏にすがることで、死者を送っても悲しみの中に安らぎを得て、自分にその番が来るときも安心できればよいのだと思う。

不思議な世界

母の歌う御詠歌を聞きながら、本当に仏の世界はあるのかと思う。光明摂取の御和讃で歌われることは現実に起こるのだろうかと思う。ここには二つの側面がある。一つ目は親しい人を無くしたときに、生きている私がそれらの人が仏の世界にいると感じられるかということ。もう一つは、私がこの世から旅立った時、私はその世界を感じることができるかどうかということ。

私が恐怖を感じているのは後者である。前者は「そう思うこと」で「そう感じること」ができる。私は神仏に祈りを捧げることが好きな人間である。死者を虚無であると捉えることはできない。人の定義の一つは「死者」というカテゴリーを持つこと。死者は地上にいる私の中では生きている。

問題はそれが私自身に当てはまるかということ。つまり、私自身に生物的な死が訪れた時、そこから先に何かがあるのかということ。

ここで私の知識が仏の世界へと入ることを邪魔しようとする。

「釈迦の教えはたかだか2500年前のことだ」などと思ってしまうのである。30万年前にはネアンデルタール人など、私たちと異なる人類も地上に存在していた。500万年前に人類は猿と分化した。

1億年前は恐竜が繁栄した世界で、私たちの祖先の哺乳類はその影で細々と暮らしていたという。地球が誕生したのは46億年前で、宇宙の誕生は130億年前だ。ビックバンの前は超高温高密度の極小な点にすべてが含まれていたという。

そのようなスケールで物事をとらえる時、果たして仏の世界は存在し私はそこへ行くことができるのかと思ってしまうのだ。私が今まで見聞きした科学的な知識が、仏の教えにツッコミを入れようとしてくるのだ。「本当にそうか?ビックバンから130億年やで!」という風に。

しかし、世の中は不思議なことだらけである。

私たちが自明のこととしてとらえてきたことが、条件を変えると当てはまらないことなど、科学的に普通に存在する。「時間と空間は一定である」というニュートン力学は、アインシュタインの相対性理論には当てはまらない。

そのアインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言ったが、量子力学の世界では偶然が存在する。今までマクロな視点でとらえてきた世界をミクロな世界で見てみると、信じられないような振る舞いがあることが科学的に分かってきているのである。観測の有無によって世界が変わること、コインを投げ表と裏が同時にでること、量子力学の世界ではそのようなことは実際にあることだ。

私は不思議な世界の中に生きている。ビックバンが130億年前に起こったというものの見方と、仏の世界は存在するという考えは共存できると思う。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。