欠け続けていたもの

旬のもの

五月はそら豆の季節だという。他人事のように書いているのは我が家ではこの豆が食卓に上ってこないからである。理由は、妻がそら豆を煮た時の香りを好まないから。それに、ただでさえ豆類を好んで食べない子どもたちも拒否反応を示すことは容易に想像できる。

そんな私も子どものころはこの豆を美味しいとは思わなかった。豆ごはんの豆がそら豆だとがっかりしたものである。大人になると味覚は変わる。私はそら豆に対して、かつて持っていた苦手意識を持たなくなった。ミョウガ、茎わかめ、ちくわぶ、イワシのつみれ、それらと同じで大人の口で食べてみると案外美味しいものである。

「たまにはそら豆を食べたいなあ」そう思っていた私をよそに妻はこの豆を調理する気配がない。私は食べるものに関して文句を言ったり不必要に要望を言ったりしない。作っていただけるだけでありがたいと思うからだ。

そのようなわけで大人になってもこの豆を外食以外で食べることが無かった私であるが、先日どうしても買わずにはいられなってしまった。私は外国食料品店へ行きペコリーノチーズとパスタ(パッケリ)とオリーブオイルを手にいれ、その足で地元のスーパーへ行き、そら豆一袋とバジルの葉を購入した。

私がどうしても作ってみたかった料理は”Pasta con fave e pecorino”(そら豆とペコリーノチーズのパスタ)である。この料理を知ったのは2011年の11月、NHKラジオイタリア語講座応用編「マッテオのレシピ12カ月」の中であった。日本で活躍されているイタリア人「マッテオ・インゼオ」氏の思い出の料理をもとに作られた番組である。

このラジオ番組は今年の4月より再放送されていて、私は2年前に購入していたテキストを使いながら勉強していたのだ。5月に入りそら豆の料理が紹介された。私は今まで感じたことが無かったぐらい強くこの豆を使った料理が食べたいと思った。それと同時に、今まで私に取り憑いていた大きな心の癖を再認識することができた。

結果から言うと、今回その心の癖を一つ克服することができた。私が機嫌よくPasta con fave e pecorinoを作ることができたからだ。

木こりとノコギリ

私は20年以上イタリア語の学習を続けている。「続けている」と言うのは語弊があるかもしれない。なぜなら学習していない時間もかなりあったからだ。私はこの言語の学習の再開と中断を繰り返してきた。それは五回や十回では済まない。もう思い出しても嫌になるぐらい、自分の意思の弱さを責めたくなるぐらいの回数である。

イタリア語の学習を始めた理由は書き出すと長くなる。それはまた「教育と言語」に関するサイトを作ったらそこで語ろうと思っている。ともかく私は悶々としながらこの言葉の学習を行ってきた。もちろん、苦しいことばかりではない。未知の言葉を知ることで目の前の景色も変化する。私はそんな瞬間を味わうことが大好きであった。そえれに英語の大きなルーツの一つであるラテン系の言語を学ぶことは、そのより深い理解の手助けとなっている。

それでもなお、私とこの言葉との関係を考える時、私の心の中はいつも暗くて重々しい色合いに覆われていた。それはどんよりと流れる川を上流に向かって泳いでいるような感覚であった。焦って必死にもがきながらもふと岸を見ると少ししか進んでいなくて、気を抜くとすぐにもとに戻ってしまう感覚である。

私はイタリア語を学習しながらも、その言語に付随した楽しい部分を味わう気持ちにはなれなかった。

こんな話がある。

木こりが必死で大木を切ろうをしている。ノコギリはなかなか進んでいかない。見ると道具もだいぶんくたびれているようである。

ある人が「ノコギリの歯を研いだらどうですか」と木こりにいうと、木こりは答える。

「そんなことをしている時間はない。この木を切り続けないと」

笑い話であるが、私とイタリア語のことを考えると笑えない話になる。

イタリア語学習に関して私はこのきこりのようなものであった。歯の鈍ったノコギリを力づくで弾き続け、疲労しながらも目に見える成果が見えない状態が続いていた。

時々イタリア映画やドラマを見ることを考えた。イタリア料理を作ってみることも考えた。その度に私はこう思った。「そんなことをしている時間はない。もっとイタリア語ができるようになってからにしよう」。

語学学習においてその言葉が話されている文化に触れることは、木こりがノコギリの歯を研ぐ行為に等しい。イタリアの素敵な歌を聞き、映画を観て、料理を食すれば、言葉を習得したい気持ちも向上するだろうし、そのこと自体から生きた言葉を学ぶことができる。

そかし、私の心の壁は歯を研ぐ行為を拒み続けてきた。

簡単なことが難しい

思えばこの私の心の癖はイタリア語学習だけに現れていたのではない。

この20年間で多くの鉄道路線が廃止になった。私は日本全国の廃線になりそうな鉄道に乗りに行きたいと思いつづけていた。「仕事が落ち着いたら乗りに行こう」そう思いつづけた。しかし、仕事が落ち着くことはなかった。

寄付にしても同じである。私は恵まれない人たちのために寄付のできる人間になりたいと思っていた。そして同時にこのように思った。「お金持ちになったら寄付をしよう」。しかし私がお金持ちになることは決してなかった。

「時間があれば」「お金があれば」「~ができるようになったら」それらの言葉はしないための口実であると、ブログを書くことで自分の心を考え始めてやっと気がつくことができた。人は現状維持を好み変化を恐れる性質がある。それがこのような言葉を引き出すことで自分の身を守ろうとしているのだ。

しかし、現状にモヤモヤしているのであれば、維持された現状もまたモヤモヤのままである。時間がないと思うのなら先に遊ぶ予定を入れてしまえばいいだけだ。寄付をしたいと思うのなら少額でもしたらいいだけだ。

条件を付ける前に、今可能な条件下の中でできる小さな行動をすればよいと気がつくまでにこんなにも長い年月がかかってしまった。簡単なことではあるが、それを身につけることはかくも難しかった。まあ、死ぬまで気付かないことよりはるかにましではあるが。

そのようなわけで、この日は私はイタリア語学習のことは忘れてPasta con fave e pecorinoを作った。ベーコンをカリカリにし、玉ねぎを炒め、そら豆を入れ、塩コショウで味を調える。火が通ればその半分にすりおろしたペコリーノチーズとバジルの葉を加えてミキサーにかける。

茹でたパスタをフライパンに上げてミキサーにかけたソースとあえる。皿に盛ってペコリーノチーズをもう少しすりおろし、バジルの葉をちぎってのせれば完成だ。

妻と二人で向かい合って味わう。パッケリの食感、ペコリーノチーズとバジルが合わさった風味、共に初めての経験である。頭の中で理解していたイタリア語のテキストが、私の官能を通じで体に入ってくる。

やはり料理や映画や音楽は遠回りではない。なぜこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか悔しいが、私は自分の中で欠け続けてきたものに気付くことができて、それはそれで嬉しさでいっぱいである。

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投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。