屋根の下で
「ああ、また1年が経ってしまったんだ」
何ごとにおいても年月の経過に対して敏感に感じやすい私ですが、その中でも、自分の誕生日以上にそれを感じるのがツバメの到来です。日が長くなる4月から5月にかけては私の好きな季節ですが、それにツバメが楽しみを添えてくれます。
時の経過を意識するのは、昨年巣立ったツバメが大人になって返ってくるからです。1年と少し前には存在しなかった命が、私の家の近くの巣で生まれ、周りの虫を与えられて大きく育って巣立ち、多くの困難を乗り越えて南の国から帰ってくるのです。
ツバメたちは本能に従って行動しただけなのかもしれませんが、こうやって無から生まれた存在が目の前で動き回って巣作りをする姿を見ると、私は感動せずにはいられません。
世のなかの生き物はツバメと同様に命をつなげる活動を行っているのですが、ツバメが特別に思えるのはその容姿をかわいらしいと私が思うからでしょう。数多くの鳥の中でやはり私はツバメが一番素敵だと思います。鉄道が好きなことも影響しているのかもしれません。
さて、私は今日も仕事を終えて電車に乗り家路を急ぎます。暗くなった空の下道を歩いていると、いつもの場所にツバメの姿が見えます。そこ歩道の上に設置された屋根の下なのですが、数羽のツバメが作りかけの巣の横、細い梁の上にちょこんととまっています。
寝ているのかと思ったのですが、時々首を動かしていて起きているようです。ツバメたちは同じ場所にとどまり、時々首を動かすだけで飛び立とうとはしません。辺りは街頭がついていてそれなりに明るいのですが、その明るさだけではツバメが活動するには不十分なのかもしれません。
ツバメたちはひたすらじっとしています。私は帰りが遅くなるたびに、ここにいるツバメの様子を見るようになりました。
やはり、ツバメたちは日が暮れてしばらくすると何もすることなく梁の上で動きを止めています。
「退屈じゃないのかな」私は思いました。
暇で退屈
私はツバメの立場になって考えようとしました。
外が暗い間、5月なら夕方8時から翌日の5時ごろでしょうか、とにかくその間ツバメはじっとしているようです。眠っている時間もあるでしょうが、何もしていない時間も相当あるように思えます。
私が何もない場所に閉じ込められた時、この時間をどう過ごしたらよいのでしょうか。6時間寝るとしても、残り3時間あります。3時間、本もテレビもパソコンも酒も音楽もない場所で、私はどうやって過ごせばよいのでしょうか。
何もなくても、言葉を交わすことができる存在があればよいかもしれません。しかし、ツバメが人間のような言葉をもっているとは考えられません。私たちと同様なきめ細かさでこの世界を分節しているとは思えません。「敵が来た」とか「餌がある」とか「来てくれ」など十数個の言葉があれば事足りると思うのです。
私があの梁の上のツバメになったら、退屈に耐えられないと思います。一週間ぐらいならたっぷり睡眠がとれてよいかもしれません。しかし、それが終わると、毎日決まった時間にやって来る、あのすることのない数時間を過ごさなくてはなりません。
何があれば満足できるのでしょうか。本、パソコン、テレビ、楽器、私はそのようなものがほしいと思いました。それらで何を行うのでしょうか。この毎日必ずやって来る埋めなくてはならない時間を、ツバメになった私はこれらの道具を使うことでどうしようとしているのでしょうか。
意味で埋める
私は本を読みます。ネットサーフィンをします。テレビ番組を見ます。そして楽器を奏でます。つまり、私が自由な時間にやるのと同じことを行います。なぜそんなことを行うのでしょうか。
それは私が時間を意味で埋めたいと思うからです。意味で埋めるとはどういうことなのでしょうか。それは突き詰めて考えれば人の営みを確認し、人間の存在を浮かび上がらせ、それと個としての自分を対比させる作業であると思います。
人間を抜きにした文学も音楽も映像作品も存在しません。私たちは人間の姿を手を変え品を変えながらあらゆるものの中に投影し、それをすくい取りながら毎日過ごしています。
自分がこの時代この場所に存在している、その意味を知りたくて知りたくてしょうがありません。だから何もしないことに耐えられないのだと思います。
そして「意味」を作りだしているのは「言葉」による作用です。私たちは言葉を持ってしまった。人間による史上最大の発明である言葉を持っているのです。喜怒哀楽も、幸や不幸も、私たちが体験するあらゆる感情や感覚はそこに結びついているのです。
言葉を持たないツバメが退屈そうに休む姿を見ながら、言葉を持ってしまった私は、頭の中を”意味あること”でいっぱいにしながら帰宅するのです。「どちらが幸せなのか」などとは考えないようにします。そもそも「幸せ」について言葉を持たないツバメは考えて感じることができないからです。
ツバメはただそこにいます。私はひたすら時間を意味で埋めようとします。それはそれで仕方のないことですが、時々、あのツバメのような時間をもっても良いのではないかと思うときがあります。「退屈である」とか「もっと何かをしなければ」と思うことなくただそこにいる時間。体を包む空気の暖かさや、肌にあたる風の通りを感じるだけの時間、そんな時間を持つことが、人間である私の宿命、つまり次の意味ある時間の創造につながるのではと思うのです。