家にいたい
私はブログに文章を書く。書きながら内なる自分と対話する。読んでいる人の反応を想像する。そうしながらキーボードをたたく。それを繰り返しながら月に5~6本の記事を書き続けてきた。
他者の存在の力を借りながら自分と対話をすることで、私の中にありすぎるものや欠けているものが見えてきた。私が何を考えて、何を考えてこなかったのかがわかってきた。
モヤモヤに押しつぶされそうだった私の人生は、今、ワクワクに満ちている。考えてアウトプットすることが行動を生み出し、行動することが現実を変化させてきた。文章を書き続けて本当によかったと思っている。私は自分の人生に幸せを感じることができるし、その大きさはこれから増していくと想像できる。
しかし、そんな私の最近の生活にも、思いがけず後ろへ下がってしまう出来事があった。
朝、目を覚ます。もともとその夜は眠りが浅かった。詳細はよく覚えていないが嫌な感じの夢ばかり見る。気持ちがどんよりと落ちている。このままベットにいたいと思った。いつもならスッと目覚めてその日に起こりそうな楽しいことを想像する。しかし、その日は仕事に行きたくないと思った。家にいたいと思った。
隣にいる妻の手を握り必死に耐えた。久しぶりにこんな気持ちになった自分を認めたくなかった。
重い足取りで仕事に向かった。いつもは歩きながら英語やイタリア語を聞き、電車の中では本を読むが、この日は何もしなかった。「どうしてこんなに気持ちが重いんだ」と思い続けながら職場へ向かった。
いつもは楽しみな授業も気持ちがのらない。常に何か別のことが頭の中にあって集中できない。「今日は調子悪いから空元気を出しながらするわ」と生徒に言って進める。この言葉が言えるだけ以前よりはマシかと思うが、最近の私の過ごす日々では最も沈んだ一日であった。
仕事を早めに切り上げると、その日行いたかったことを全てやめてサウナに行った。時間をかけてサウナと水風呂と外気浴を繰り返す。
雑音だらけだった私の脳も、摂氏90度の部屋に10分間いれば何も考えられなくなる。水風呂の冷たさを感じている間は、そちらの方が雑念に勝る感覚を脳に与えてくれる。日が落ちて暗くなった世界を、風に吹かれながらボーッと眺める。今日起きたことを忘れさせてくれる。
この日は休肝日と決めていたが、サウナから戻りビールを飲む。酒を飲む飲まないは都合に応じて変えればよい。こんな日にビールを飲めない人生を私は望んでいない。
サウナとビールで私は徐々に元の自分を取り戻そうとしていた。
重なった
順調だった私の気持ちが、一時的とはいえこのようになってしまった原因を考えてみる。二つはすぐにわかった。
一つ目はこの日が5月の第四日曜の翌日だったということ。それは五月場所千秋楽の次の日を意味する。ここ近年は毎回そうであるが、相撲が終わると軽い「相撲ロス」に襲われる。
一つの現象には必ず表と裏がある。簿記でいえば借方と貸方だ。私は相撲が好きになったおかげで5月病もないし、夏休みや正月休みも早く過ぎてほしいと思うようになった。その先にある場所が気になってしょうがないのだ。
そういう点では助かっているが、一か月半待ちつづけた場所が終わると何とも言えない寂しい気持ちになる。数十人の力士の結果を気にし続け、一人で画面に向かいああだこうだと独り言を言い、それを同僚や立ち飲みの常連や家族と話し合う、そんな時間が二週間続く。
時にそんな時間とサウナや酒が組み合わされる。私の幸せの源である3つのS、Sauna, Sake, Sumoが揃う。過ごす時間が楽しければ楽しいほど、それが終わった直後は喪失感が深い。別にこれが人生で最後の相撲ではないであろうから次へと期待を膨らませればよいのだが、これは私の性格なので仕方がない。
思い当たる二つ目は、千秋楽の日私が実家に帰っていたことだ。前回の帰省から約一か月、田んぼや畑周りの草ものびている。私は3~4時間ほど草刈りを中心とする農作業をした。
ただ農作業をするだけならよい。たまに土に触れることは気持ちよいし、それほど遠くないうちに農業をしようと考えているくらいだ。私の心を重くしたのは、私の傍らにいた父の姿である。
ここ1年半、足腰の悪い状態が続いている。私が野良仕事を手伝うのはそのためである。重いものが持てなくなり、長時間立って仕事ができない、元気で活発に動き回っていた父を知っている私にとっては認めたくないが、それが今の父の姿である。
「老い」という言葉が頭をよぎる。誰にでも平等にやって来る自然の摂理。何もできない赤ん坊から人は成長し、数多くの「できる」を積み重ねてゆき、やがて老いと共にそれらを一つずつ手放していく、それが人間の宿命。
そんな宿命を、今私は分かりやすい形で目の当たりにしている。そして、そのような父の姿はやがて訪れる私自身の姿に他ならない。今の気力や体力からは信じられないことであるが、私も父のように重いものが持てなくなり、同じ姿勢を維持できなくなる。
私が何もすることができなくなり、この世から去る日がいつかやって来る。
その他二つ
久しぶりに気持ちが落ち込んだ理由を考えている。先の二つはすぐにわかった。もっともっと考えてみる。浮き沈みを繰り返しながらも、私は結局機嫌よく幸せな人生を送るのだ。そのためには、気持ちを沈める相手を知ることが必要だ。最近どんなことをしてきたのか思い出してみる。
5月になってツバメの巣作りが盛んである。毎日決まった場所を通るとき頭上を見上げて観察する。私にとって楽しみな時間である。しかし、その楽しい時間も私の無意識には負の作用をもたらしていたようだ。
この時期、ツバメは一瞬で子育てを行う。巣を作ったと思ったら抱卵が始まる。雛が羽化してからがとにかく早い。黄色い口を開けて弱々しく餌をねだっていた雛が、ものの1ヶ月で親と同じぐらいの大きさに成長する。そしていつの間にか巣立っていく。いつもの場所に空になった巣が残される。
私も子育てを行っている。もう20年近くになる。去年のツバメの季節、大学に進学した長男は一人暮らしを始めた。引っ越しは5月場所千秋楽の日だった。長男のアパートにテレビを設置し、初めて見た画面に優勝を決める照ノ富士の姿が映っていた。
高校生の次男が勉強を始めた。中学三年間はほとんど学習しなかった。私は何も言わなかった。そんな次男が最近、私が少し考え込むようなことを聞いてくる。かわいかった表情にどんどんたくましさが加わってくる。夏休みには大きな一人旅を計画している。
子どもたちが親からどんどんと離れていく。物理的にも精神的にも。彼らの人生の中で私たちの存在が相対的に小さくなる。それでいい、それでなくてはならない。しかし、寂しさを感じるのも事実である。ツバメの子育てと空になった巣は、そんな私たちの寂しさを先取りして見せてくれる。
ジュンク堂書店に平積みしてある本を買った。近藤康太郎氏の書いた「百冊で耕す」である。私は彼の文章が大好きだ。そして彼の生き方にも憧れを抱く。私の生き方のロールモデルの一人である。
そんな彼の新刊を付箋をたくさん張りながら読んだ。面白かった。しかし同時に思った。「私は全く本を読んでいない」と。
私は形だけの読書を続けている。二週間に一度図書館に行き5~6冊の本を借りる。毎週土曜日は書店と古本屋に行き2~3冊の本を買う。こう考えると年間200冊は本を読んでいるであろう。しかし、日々時間に追われる私が読んでいるのは、ビジネス書や新書といった読みやすい本が中心である。
私は「本を読む」ことを行うために本を読んでいる。「読むべき」と「読みたい」が重なった読書を行っているわけではない。そして、私の心が望んでいるのは後者である。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んだ時、私はこの話をもう一度読まなくてはならないと思ったし、この人の作品をもっと読むべきだと感じた。そんな私の思いはもう20年間も放置されたままである。
アリストテレスの「形而上学」、ゲーテの「ファースト」、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」、若き日の私が「これを読まなくてはならない」「これを読みこなせる自分になりたい」そう思って買ったままの本が数多く眠っている。
自分の内側を変えなければ理解することのできない読書、読む前と読んだ後では自分が変わっているような読書、そんな体験を私は求めながらも避けてきた。「百冊で耕す」を、私は自分に欠けているものを痛感しながら読んだ。この欠如を私は取り戻すことができるのだろうか。そうするためには、私のこれからの人生はどうあるべきなのだろうか。
時間
私は今、平静を取り戻している。未来に希望があるし、今日一日も楽しく過ごせそうに思う。
今回の気持ちの落ち込みを振り返ると、やはり私にとって一番の関心事は「時間」であると再認識させられた。
大相撲という楽しみが終わること、老いていく父の姿に自分を重ね合わせること、ツバメの子育てに人生の早さを感じること、真の読書をしないまま時間だけが経過してしまったこと、これらへの気づきが重なった時、私の心はオーバーフローを起こしてしまった。
ただでさえ「生老病死」が私の苦しみの根本であるという認識がある。人一倍時間の経過に対しては敏感になってしまう。人はこの世に生まれ、生活し、時間が経過すれば死んでしまう存在である。時間とは私の人生に他ならない。
だから私の幸せとはその時間をどう使ったかの履歴で作られている。これからの人生も「時間の経過」から私は逃れることができない。それが私の心に強く響いた時、私はまた気持ちの落ち込みを感じるかもしれない。
しかし、結局私は「どうしようもないこと」で苦しめられている。その苦しみを少しでも和らげてくれるのは「時間の経過」に対して「今」を充実させつづけること。そのことはよくわかる。だから、この文章を書き終えたら、今日行う楽しいことを考える。毎日それを続けていく。