一生モノのフレーズ

書店にて

ラジオ講座を利用して語学学習をする人の数は減ってきている、私はそう確信している。それは書店に定期的に通っていればわかることである。

かつては4月になるとNHKのコーナーにテキストが高く積まれていた。その数は「こんなにラジオで語学を勉強している人がいるのか?」と思うほどであった。「遠山顕の英会話」とか「杉田敏のやさしいビジネス英語」はその中の主役であった。脇を固めるように基礎英語など他の英語系テキストが並び、後ろの方に他の外国語のテキストが並んでいた。

英語以外の外国語で一番幅を利かせていたのは中国語とハングル語である。そして冊数は落ちるがヨーロッパの主要言語が並び、私はその中のイタリア語のテキストを毎月手にしていた。

今、NHK第2放送で聴くことができるイタリア語講座は1つになったが、10年ほど前までは「アンコールイタリア語講座」があり、以前放送された番組の再放送をしていた。このアンコール放送は英語以外の各語学に存在していた。1日に二種類の番組が聞けて嬉しかったが、ある年を境に全ての言語で「アンコール」はなくなった。

動画のコンテンツに語学学習系が広がり始めた頃である。ただでさえ存在感の薄いAMラジオの教育専用チャンネルである。これだけオンデマンドのメディアが広まる中で番組が削減されるのは仕方のないことなのだろう。

さて、この「アンコールイタリア語講座」であるが、放送された当時私はそれほど聴いていなかった。当時は多忙を極めていて語学学習に関して心も荒んでいた。イタリア語をやらねばならない、しかしどう考えても時間がない、そのような状態で学習の中断と再開を繰り返していたのだ。

私はジャパネットたかたで購入したラジオレコーダに片っ端から英語やイタリア語のラジオ番組を録音し続けた。優先順位は仕事で使う英語になってしまう。レコーダーのメモリーが一杯になり、何とか時間を見つけて「ビジネス英語」や「高校生のための英語講座」などを聴いた。

通勤途中や人を待っている間、そんな時間も早送りしながら録音を聴いては消しまた新たな番組を録音する、そんな日々が続いた。よく「今の若者はスマホに支配されている」と言われるが、当時の私はこのラジオレコーダーに支配されていた。

このラジオレコーダーはあまりに使いすぎて、ボタンの反応が悪くなりまともに操作することができなくなってしまった。そんなわけで3年前の冬、私はソニーのラジオレコーダーを購入した。未聴のイタリア語番組が一杯に詰まった古いレコーダーは、寝室の棚に放置された。

復活させる

私は今、10月のイタリア語検定に向けて勉強をしている。問題集や過去問題を解き、書籍やネットで長文を探して読み、ポッドキャストでリスニングをし、空き時間に単語や慣用句を覚えている。結構無機質な学習である。

私はかつて「アンコールイタリア語講座」でイタリアの歌を取り上げた番組を放送していたことを思い出した。タイトルは「DJマリア」であった。何回か聞いたことはあったが、大半はあのジャパネットたかたのラジオレダーの中に眠っていた。

久しぶりにレコーダーの電源を入れた。何の反応も無かった。電池を入れ替えてもう一度ボタンを押してみた。懐かしい液晶画面が浮かび上がってきた。「やったー」、でも喜ぶのはまだ早い。果たして録音した番組は残っているのだろうか。

十字キーは相変わらず反応が悪い。上を押しても画面表示は反対方向に移動する。4回に1回ぐらいはまともに反応する。私は苦労しながら操作する。どうやら番組は残っている。その中から「DJマリア」の番組を探す。

録音した番組は日付しか表示されない。確か2015年辺りだった。私は十字キーとしばらく格闘し、ついに目当ての番組にたどり着いた。

私はレコーダーの中に残っていた「DJマリア」を順番に聴いていった。AMでモノラルのため歌を聴くには音質が悪い。しかし、昔の歌を聴くにはそれもまた味がある。実際に取り上げられていたイタリアの歌の中には私が生まれる前のものもかなりあった。

それにしても何という番組であろう。15分間の放送に日本語は一切出てこない。イタリアの歌とマリアさんとその相棒のイタリア語での語りのみで構成されている。こんなイタリア語講座は私の知る限り他になかった。

ヒットした歌とその解説、語学を学ぶ動機に十分なりうる要素だ。英語の勉強をしているときも、歌っている歌詞を理解出来たら素晴らしいだろうなといつも思っていた。それなのに2015年当時の私は積極的にこの場組を聞こうとしなかった。いろいろな重圧が私にのしかかり押しつぶされそうになっていた。

今番組を聞くと、しみじみと心に染みる。とてもいい。変なプレッシャーがなく、純粋に楽しみながらイタリア語を学ぶことができる。いや、これは勉強ではなく娯楽であると思える。さっぱり理解できなかったイタリア語の語りも結構わかる。

「学習する時間がない、でも捨てたら今までやってきたことが無駄になる」そんな狭間でモヤモヤしながらイタリア語学習の中断と再開を繰り返してきた。こうして母語を介さずに理解できる場面に出会うと、それはそれで苦しかったけど価値のあったことなのだと思う。

新しい命

番組を聴き続けるうちに、すさまじくフックのある一曲に出会った。単純な構成であるが、一度聴いたら忘れられなく思わず口ずさんでしまうような曲だ。

私はその曲を繰り返し聴いた。そうせざるを得ないような響きを持った曲であった。残念ながら聴いただけでは歌詞の意味をとらえることはできない。私のイタリア語はまだそんなレベルに達していない。何か悲しいことを歌っているようだが、その中にも明るさがある、そんなイメージを持った。

私はネットで歌詞を検索した。曲名は「Insieme A Te Non Ci Sto Piu」、Caterina Caselliという女性の歌手が60年代終わりに歌った曲であった。

私は歌詞を一行ずつノートに書き写していった。タイトルから分かる通り別れを歌った曲であった。しかしそれを嘆く内容ではない。恨みや未練を歌ったものではない。別れとこれからを少し離れた場所から見ているような印象を受けた。

歌詞の一節が、私の心をとらえた。イタリア語のまま、スッと入ってきた。

Si muore un po per poter vivere

「生きるためには少しだけ死ななくてはならない」

人の死とは何なのであろうか。私たちはそれをデジタルなものとしてとらえる世界に生きている。1か0、つまり生きているか死んでいるかというとらえ方である。その基準は脳波であったり、心臓の鼓動であったり、瞳孔の開閉であったりする。しかし、本当にそうなのであろうか。

私たちは物理的な世界と精神的な世界とのつながりをよく分かっていない。しかし、目に見えるものと見えないもの、つまり心と体のつながりは実感することができる。私たちがとらえることができない世界が存在し、それは認識できる世界に影響を及ぼしている。

だから死に関しても、今私たちが採用している目に見える世界の基準以外にも何かがあるのかもしれない。そして、それは1か0の世界ではなく、細かなグラデーションのようなものかもしれない。私はそんなふうに思うのだ。

「少しだけ死ぬ」という考えは私に新たな死生観を与えてくれた。生きていくために少し死ぬのだ。生と死とが同時に存在している世界もあっていい。実際に私たちは毎日変化している。体も心もある部分は死に、ある部分は再生している。心身の中に無限の死と生をかかえながら、徐々に死の部分の割合が増えていくのが命であるような気がする。

いろいろとややこしいことを書き連ねているが、単純に嬉しかったことはこの素晴らしい歌詞の一節を私がイタリア語で感じたことである。英語や日本語に直しても、私の心はここまで震えることはない。前後の歌詞の間に Si muore un po per poter vivereとあるからいいのである。

「生きるために少しだけ死ぬ」でも”You need to die a little to live”でもなくSi muore un po per poter vivereなのだ。

私はビートルズのNowhere Manの歌詞が大好きで読むたびに心が震えるが、日本語に直したものを見てもそれほどの感動はない。外国語を学習する良さは、このように今まで私の外側にあったものを、言葉と同時に自分の中に取り入れることにある。それは私に少しだけ新しい命を与えることである。

私は一生もののフレーズを手に入れた。いろいろと苦労もあるが、こういうことがあるから外国語はやめられない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。