童君との会話
同じ職場で働くオーストラリア人の童君が、私の隣で弁当を食べています。近くの肉屋さんが作っている焼き豚弁当です。このお弁当は、彼のお気に入りで、週に何回かは焼き豚をほおばる彼の姿を目にします。
「もしオーストラリアに帰ることになったら、僕はこの焼き豚を恋しいと思うだろう」そう言う彼と”恋しい食べ物話”で盛り上がりました。
味覚というものはおかしなもので、世界の大多数の人がおいしいと感じるものもあれば、どうしてこの味を好んで食べるのだろうと思うものまで、細かなグラデーションを描きながら存在します。
塩コショウで味付けした肉やチョコレートは誰が食べても美味しいと感じるものの代表だと思います。やや好みが分かれるものとしては、魚料理や地域が限定された果物などがあげられるでしょう。
童君はオーストラリアでよく食べられる、ベジマイトが恋しいと言っています。麦芽などをイースト菌で発行させて作られるジャムみたいなものです。しかし、少しも甘くなく、塩味と薬剤のような香りが食欲を減退させます。私は、一度食べ、もう2度と食べたくないと思いました。
しかし、このベジマイト、オーストラリア人にとっては欠かせない食材となっているようで、主にパンに塗って食べるようです。やはり、ずっと食べていると食べなれて、おいしくなるものでしょうか。
オーストラリアと言えばもう一つ、名前は忘れましたが、以前童君から黒いあめを5つほど貰ったことがあります。彼は通販でそれを手に入れたらしく、「ノスタルジアを感じる」とその日は上機嫌でした。
木の根っこの成分が入っているらしく、甘くはないけど懐かしい味だそうです。童君が席を外した時、私はそのあめを1つほうばり、そしてすぐにティッシュに吐き出しました。すさまじいまずさでした。薬品のようで、食べ物という気がしないのです。
童君がおいしそうに食べているものを、どうして私は食べることができないのでしょうか。私は、4つ残ったあめを机の中に隠しました。後に、もう一つ口にしました。ひょっとしたら少し慣れて食べられるかもしれない、そう思って。
やはりダメでした。口が危険物として反応してきます。30秒ほど我慢してみましたが、どうしてもだめです。口から取り出し、残りの3つと一緒にゴミ箱にこっそりと捨てました。童君は、今日まで「あのあめどうだった?」とは聞いてきません。忘れてるのか、外国人にはわからない味だと最初から思ってた確信犯だったのか。
おいしくないを超えた美味しさ
そこまでひどくはないのですが、最初は「まずい」と思いながら食べ、慣れるにしたがって「普通」になり、いざ食べられなくなったら「恋しい」という食べ物があります。
もう4半世紀も昔、私はロンドンに5か月ほどいたことがあります。思えばその当時の私も「モヤモヤ」していたのでしょう。大学を休学して、海外に住んでみたかったのです。ホームステイをしながらロンドン中心部にある語学学校に通っていました。
ネットは普及していない時代でしたが、出発前、イギリスに関するエッセイを何冊か読んでいたため、悪名高いイギリス料理については覚悟ができていました。
ホストマザーの出す料理はとてもシンプルでした。朝は各自でシリアルと紅茶、昼は街で食べ、夜は肉類・ゆで(過ぎた)野菜・ジャガイモが一皿に盛られています。生きていくために必要な栄養を摂取する、そんな感じの食事でした。
その夕食の皿の一部に、頻繁に豆のトマト煮が入っていました。イギリスではベイクト・ビーンズと呼ばれるものです。”ベイクト”と呼ばれていますが、焼かれて調理されたわけではなく、茹でられたものです。
”トマトソース煮”とは書かず”トマト煮”と書いたのは、トマトソースと言うと何かうま味が凝縮された美味しそうなものを連想してしまうからです。
実際には、ベイクトビーンズとは薄いトマト色をした、大豆のような豆を原料とする、トマトの風味がほとんど感じられない、あまり食感のよくない豆料理です。
夕食ごとに、私はこの豆料理を食べ続けました。どうしてこんなに毎日この料理を作るのか不思議でしたが、後にこれは缶詰を温めなおしただけのもので、しかも価格もかなり安いことに気がつきました。なるほど、スーパーに行くと、ベイクトビーンズ缶の山が、まとめ買いを前提とするような形で売られています。ホストマザーにうっかり「あの豆料理いつも美味しいよ」とお世辞を言わなくてよかったと、ほっとしています。
不明瞭な味、グチャッとした食感、トマトと豆のどちらの良さも引き出さず、むしろ悪いところを組み合わせた味のように私には感じられましたが、「郷に入れば郷に従え」です。私は毎日この豆料理を食べ続けました。
日本に帰った後、イギリスの食べ物を思い出す時、真っ先に出てきたのはあのベイクトビーンズでした。現地にいる時は、嫌々食べていた料理が、少し離れると懐かしく感じられて、食べたくてたまらないのです。
私は輸入食料品店に行き、あの豆料理を探します。似たものはあります。同じ豆のトマト煮なのですが、中にポークなど別のものが入っていて美味し過ぎるのです。私が食べたいのは、あのシンプルな、最初は何がうまいのか分からなかったベイクトビーンズでした。
人の好みはおかしなものです。おいしいものより、おいしくないものの方が美味しいのです。毎日五感が受ける情報によって、人は生まれ変わり続け、一日たりとも同じ気持ちや感覚でいることはありません。日々変化する体に”慣れ”や”なつかしさ”という味付けがなされ、いつの間にか新たな味のセンスが作り上げられるのでしょう。
心地よくないが心震える音
この、おいしくないを超えた美味しさの存在、音楽についても言うことができると思います。
今から15年ほど前、クサメタルという音楽が注目された時期がありました。注目されたといっても、ネット上の一部のことで、誰もが知っている音楽と言うわけではありません。
私は、ホームページの情報を元に、半年ほど前にブログに書いたブルーベルレコードに通い、クサメタル系のCDを買っていました。クサメタルとは、ヘヴィーメタルの持つ様式美の部分(クラッシックを連想させるような楽曲構成など)を誇張した音楽で、この時期、北欧や南ヨーロッパを中心に多くのバンドが活躍していました。
玉石混合、メジャーデビューを果たしたバンドから、ネットで検索しても出てこないバンドまで、ブルーベルには多くのクサメタルバンドのCDが揃っていました。そして、店主さんは、よく曲を知っていました。
スカイラークと言うイタリアのバンドのCDを買ったのもその時期でした。そのころよく見ていたサイトで一押しのバンドだったので、一番評価の高いアルバム買おうと思いました。Gate of HellとGate of Heavenの2枚です。
しかし、ブルーベルレコードにはこの2枚は置いていなく、唯一1995年に出された自主製作版「After the Storm」を発見。ジャケットを見た時少しためらいましたが、購入して聴いてガッカリ、何だこりゃと思いました。
買う時ためらったのは、評判の高い2枚のアルバムとは、まるでジャケットの画風が違ったからです。不自然で気持ち悪く、メタルバンドとは思えません。何かがズレている絵です。
肝心の楽曲なのですが、自主製作版だけあって音質とバランスが悪いのはある程度仕方のないことです。しかし、演奏が下手でツボを心得ていなく、自己満足だけで作ったようなアルバムでした。他の音に埋もれてしまうギターソロ、どうやってノッたらよいのか分からないドラムパターン、そして、何よりニワトリの首を絞めて出したようなファビオ・ドッソの高音シャウト。それらが大仰で顔が赤くなるような臭い展開の曲の中で炸裂します。
「これがスカイラークか…」買ったことを後悔しましたが、その後クサメタル界の名作と呼ばれるGate of Hell, Gate of Heavenの2枚のアルバム、その手前に出たDragon’s Secretを買って考え方が変わりました。
Gate of~の2枚はクサメタルとしては最上級のアルバムで、若き頃の私は聴く度に悶絶していました。今でもたまに聴いては熱いものが込みあがってきますが、そのポイントの原型はあの「After the Storm」にあることに気がつきました。
「私は結局、あのファビオの無理やり出している声と、エディー・アントニオーニの作る大仰な曲の展開に心地よくなっている」
そう思うと、そのうちAfter the Stormも普通に聴くことができるようになりました。それどころか、ニワトリの首を絞めて出したようなあの高音部分を、今か今かと待ち望み、一人車を運転するときなどCDと一緒に機嫌よく歌っているのです。
用法は間違っているかもしれませんが「住めば都」という言葉が当てはまるのかもしれません。最初は”!”や、”?”と思う味や音でも、慣れていくうちになんともなくなり、それを離れると寂しさを感じてします、そういうことかもしれません。
私のこのモヤモヤ生活、心が晴れやかになった折には、時々懐かしいものとしてポジティブに思い出すことができるのでしょうか?