自由時間
私は自分の自由時間の多くを語学学習に使っています。これは半分は楽しみでやっていますが、残りは義務感のような感情につき動かされてやっています。
学習している語学は英語とイタリア語です。かつては台湾語も少し行っていましたが、とてもじゃないけど時間が確保できないため現在は中止しています。
イタリア語は検定で2級を取るまでは続けようと考えています。実用性はほぼありませんが、近いうちにイタリアを旅したいとは思っています。
英語は仕事で使うために必要です。とは言ってもそれほど難しい英語を教えているわけではありません。今までのストックがあるので、英語の勉強をサボっても仕事に支障はないと思われますが、英語学習を止めることはできません。
これは私に精神的な縛りがかかっているからです。その縛りとは「英語に対する劣等感」です。
私は中学校で社会を教えたくて教職を目指しました。専門も人文地理でした。しかし、いろいろあって高校で英語を教えることになりました。免許は持っていましたが、英語で教育実習をしたこともなく、講師の経験もありませんでした。
予測しなかった人生の展開も面白いのですが私の中にはずっと「自分は本物の英語教師ではない」という訳のわからない気持ちが澱のように溜まっていました。
教壇での経験を重ね、英検1級や全国通訳案内士の資格もとった今、もうそんな劣等感を持つ必要はないのですが、若き日に染みついたこの心の癖を取ることは一筋縄ではいきません。英語を読まない日があると「自分はダメになっている」という気持ちに取り憑かれます。こんなにも長く英語を教えているのに「揺るぎない自尊心」ができていないのです。
そんなわけで今日も空いた時間があれば英語を学習しました。英字新聞を読んだり、現代ビジネス英語のムック本のリスニングをしたり、今はベストセラーになった”Talking to My Daughter”を読んでいます。
イタリア語はマッテオ・インゼオの書いたエッセイ”Caro Giapponese”を辞書を引きながら読んでます。
自分では結構な時間を使って二つの言語を学習しているつもりですが、それに見合っただけの力がついている実感はありません。特にイタリア語に関してそう思います。
先日、その理由、つまり「なぜ私のこれらの言葉を習得が遅いのかと」いうことについて閃いたことがあるのでこれからそれについて述べます。
気になって仕方がない
私の語学学習の効率を悪くしている一つは、一つの言語に集中できないということです。これは英語とイタリア語との関係に由来します。
英語の特徴として膨大な借用語の存在があります。特に学術面での語彙は、その多くを古代ギリシャ語とラテン語にルーツを持ちます。イタリア語はラテン語から派生した言葉であるため、イタリア語の語彙が増えれば増えるほど英語の学術語の意味が推測しやすくなるという現象が現れます。
この二つの語の関係は共にインド・ヨーロッパ語族で微妙な距離感があります。英語とドイツ語ほど近くはないしイタリア語とスェーデン語ほど遠くもありません。従って、文の構造に関して、よく考えれば浮かび上がってくるような共通性が見られるのです。
以上のような理由で、私が一方の語学学習を行う時、立ち止まって考えてしまう場面が頻繁に出現します。例えば先日はイタリア語を読んでいて”suggestivo”という形容詞が出てきました。
これは英語でいう”suggestive”であることは容易に推測できます。しかし、そう思いながら文章を読むとなんだかしっくりこないのです。伊和辞典を引いてみると二つの言葉には微妙が違いがあることがわかりました。
英語:suggestive 示唆的な 連想させる 挑発的な
イタリア語:suggestivo 示唆に富む 魅力的な 見惚れるような
「示唆的」という意味では二つの言語は一緒なのですが、そのほかの点では英語に対してイタリア語の方がポジティブな印象を受けます。実際、英和辞典にはsuggestiveにはobscene(わいせつな、低俗な)の婉曲表現という記述が見られました。
もう一つ例を挙げます。イタリア語の動詞”pretendere”です。これもすぐに英語の”pretend”(〜のふりをする)と同じ意味かと思いましたが、このpretendereには「強要する」という意味がありました。pretendのつもりで読んでいたら意味が通じないはずです。
文の構造に関してもどちらかの言語を読んでいると「これってあれのことか」と思うことが度々あり途中で学習が途切れてしまいます。
例えばイタリア語に”Se solo ~ “という表現があります。これは後ろに主語+動詞が続き「ただ~だったらなあ…」という実現していない願望をあらわします。”se”と”solo”にはそれぞれ英語でいう”if”と”only”という意味があり、英語でも同じ願望を”If only”に続いて表すのです。
私はこのような二つの言語の類似性に気づくと興奮し、それを手帳に書き留めます。そして時にはその気付きは三つの言葉に及ぶことがあります。
例えば日本語に「白黒」という表現があります。「白黒の画像」という風に使われます。日本語の場合、白が最初に来て「黒白」とは言いません。これが英語では反対になり”black and white”と黒がはじめに来ます。
さてイタリア語はどうなるのか気になります。日本語、英語と比較するとイタリア語ははるかに英語に近い言葉なので「黒白」となりそうですが、実は日本語と同じで”bianco e nero”となります。
このようなことが気になりだしたら、私は3つの辞書と格闘することとなり元の言語へ集中できないのです。
残りの半分
ここまでは「私が一つの言語学習に集中できない理由」の半分です。これから残りの半分について書きます。
私は自分では自分の頭の構造、考え方のクセは二十歳のころから変わっていないと思っています。基本的にはそうかもしれませんが、40才を超えたころから、明らかに私の思考全体を包み込んでいるノイズのようなものがひどくなってきました。そしてその正体は「おやじギャグ」です。
パソコンの各種プログラムの下で常にウィルスソフトが動いているように、私の頭も目や耳から入ってくる言葉に対して「おやじギャグセンサー」が監視を続けています。今まで日本語が主な活動領域だったのですが、最近では英語やイタリア語にも勢力を広げています。
そしてそれらのハイブリット型が現れるようになってきました。これは「日本語+英語の話者」「日本語+イタリア語の話者」と、二つの言語が理解できて初めて笑える(?)おやじギャグです。
私が最近思いついたものを書きます。
This buckwheat noodle tastes so bad!
(この蕎麦の味はすごく悪い)
White Dr Muto advised me not to take sugar for the time being, Dr. Kato advised me to take more sugar.
(武藤先生は私にしばらく砂糖を取らないように忠告した一方で、加藤先生は私にもっと砂糖を取るように忠告した。)
イタリア語がらみでは、
1.「店主はスコンと値引きしてくれた」
2.Per raggiungere la verita, Budda ha buttato tutti.
最初のギャグはイタリア語で「値引き」のことを”sconto”といいます。2番目は「真理に到達するためにブッタは全てを捨てた」という意味です。”ha buttato”は「捨てる」という意味の動詞”buttare”の三人称単数過去の形で、お釈迦様であるブッタと韻を踏みます。
私はこのような調子で語学学習を行っているので、なかなか一つの言語に集中することができません。その日の体調や心の調子によっては集中して読めることもあるのですが、たいていは途中で止まって辞書を引きながらメモを取ることになります。
以上で「私が一つの言語学習に集中できない理由」の残り半分の説明を終えたと言いたいところですが、おやじギャグは「残りの半分」の半分に過ぎません。
ではその半分、つまり全体の四分の一は何なのかというと、それはここに書くことができないことです。端的に言うと「下ネタ」と「ブラックジョーク」です。私の脳のセンサーは性や排泄に関すること、生き死にや偏見に関することにも容赦なく反応しまくります。
三つの言語でそれが起こるとかなり疲労します。しかし、自分の中では面白い笑いに変わったりします。気に入ったものは手帳に記して時々見て笑っています。この手帳は絶対に落とすことができません。
今日も私はこのように苦労しながら、しかし楽しみながら語学を学んでいます。
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