レアな経験 ファイナル?(前編)

今まで道のり簡単に

「城下町ツアー」の構想が初めて出たのは2年前の12月であった。私はその月全国通訳案内士の2次試験を受け、直後に私の仲人さんと飲む機会があった。私の仲人さんは日本史が好きで、その中でもとりわけ城下町に興味を持たれている方である。試験の英語による口頭試問のテーマに私が「日本の城下町」を選んだことを話すうち、私たちは二人で日本の城下町を旅することになった。

仲人になっていただいて約20年、今までお互いの家で食事をしたり定期的に飲みに連れて行っていただいたりはしていたが、泊を伴う旅など行ったことがなかった。私の時代であっても仲人を立てるカップルは半分以下であり、個人同士の結びつきが大切とされる現在ではこの傾向はますます進んでいるであろう。

ただでさえ少なくなっている仲人と婿との関係の中、一緒に旅をすることなど本当にレアな経験となるであろう。そんな経験を私たちはこの2年の間に三度行った。2022年の夏に松阪と伊賀上野へ行き、秋には福井の一の谷遺跡と丸岡城を中心に回った。次の年の夏は備中松山城と福山を巡った。

丸岡、備中松山という流れは私と仲人さんのどちらも訪問したことがない城に行くことが目的であった。日本には江戸時代から残っている城が12ある。前回の旅を終えて、その現存12城の天守閣の内、仲人さんが入ったことがないのは丸亀城だけになった。だから、前回の帰り道、次回をするなら丸亀にという話になり、半年の後それが実現することになった。

12月のある日、私はいつものように愛車のミニバン「日本文化ワビサビ号」で仲人さんの家へと向かった。余談であるが、ドアの小さなサビを放置するうちにこぶし大の大きさまで成長した「ワビサビ号」であるが、ガソリンスタンドの方のアドバイスに従ってサビを削り、修復用の塗料が塗られたため今は見た目の情緒が失われている。

あいさつの一杯の後で

さて、今回の行き先は香川県になる。私は今までに親類や仲の良い友だちがいるわけでもないこの県を100回以上訪問した。一番多い年は8回行った。ご察しの通り、讃岐うどんが好きになったからである。

そのあたりの経緯を書き始めるとこの記事の主題からそれてしまうため割愛させていただくが、私は香川県の教員採用試験を受験することを一時考えたぐらい讃岐うどんの魅力に取りつかれた。そして、その扉を開いてくれたのは旧綾南町の「たむら」と今は閉店した琴平町の「宮武」であった。

今回丸亀を訪問するに際して、私はたむらで遅い朝食を食べて現地へ向かうことにした。うどん県にやって来て今日は一日お願いしますという挨拶の一杯である。

高松檀紙インターを降り国道11号線を西へと向かう。府中の交差点で旧道に入りすぐに左折、予讃線のガードをくぐりまっすぐ進み右手に府中湖が見えると間もなくだ。30年前に初めて来て以来何度も通ったこのコースであるが、いつ来てもドキドキする。「もうすぐたむらの麺が食べられる」頭の中がこの気持ちでいっぱいになる。

開店からまもない店内はそれほど人も多くなくすぐに注文することができた。仲人さんはうどんの選択を私に一任している。かけ大に昆布の天ぷらをのせて、おろし生姜とネギを加えて出汁をかける。初めて来た時以来私がここで注文するうどんは同じである。

エッジの立った麺にワイルドないりこ出汁を絡めて一気にすすりこむ。途中で2~3度甘みの強い昆布天をかじりながらすすりこむ。無言のまま数分のうちに食べ終わる。この数分のために海を渡ってここに来てもいいと思えるような食べ物である。

この狭い店内の同じ場所で30年にわたり何人もの人とうどんを食べてきた。大切な人や友人たち、妻と来たこともある。今はこうして仲人さんと二人でうどんを食べている。店内のどこを見てもあの時と景色が目に入ってくる。入口から学生時代の私が入ってきそうな気持になる。振り返ると先代のおじいちゃんがニコニコしながらうどんを打っていそうな気分になる。

お腹が満たされたところで今日の目的地丸亀城へと向かう。壮大な石垣で有名なこの城であるが、「石垣の美しさが一番わかる場所は市民広場である」とは田尾和俊氏の言葉。言わずと知れた讃岐うどんブームの仕掛け人であり、私は彼のFM香川でのうどん番組を欠かさずポッドキャストで聞いている。

駐車場にワビサビ号を停めて市民広場から丸亀城を見上げる。確かにこれだけ全体の視野の中に石垣が入りこんでくる割合の高い城も珍しい。石垣でできた丘の上に天守閣があるようだ。

資料館が休館中であったため予備知識なしで天守閣を目指して丘を登っていく。とはいっても隣には仲人さんがいるので、いろいろと気がついたことを質問し、時には一緒に推理しながら歩みを進めていく。

天守閣に入り急な階段を登り最上階を目指す。ここに来る人たちはどんな気持ちでいるのであろうか。上から景色を見たいのか、建物の構造を見学したいのか、展示品が見たいのか、写真が撮りたいのだろうか。おそらくそれらが入り交ざった気持ちでいるのではないであろうか。

私はどうであろう。もちろんそれらの気持ちもある。しかし、一番大きいのは数百年前にここにいた人々の気配を感じること。感じることができなければ、目を閉じて想像すること。確かにここには人がいた。現在とはまったく異なる倫理観や思考を持った人々が、この同じ場所で何かを考えて何かを行っていた。そしてそれらの人々は今はもういない。

城はある。中の人はいた。いたけど今はいない。今は私がいる。私もいなくなる。過去と未来、物理的に同じ座標に身を置き、私は存在するとはどういうことなのか考えようとする。分かるはずは無いがそうせざるを得ない。そうすることで、今考えている私の存在が浮かび上がる。少し安心する。

海と共に

12城目の訪問を終えた仲人さんに、弘前城や松山城の話を聞きながら車を東へと走らせる。私はそれらの城にまだ行ったことがないのだ。時間は昼過ぎ、小腹が空いてきた。目当てのうどんやの前を何軒か通るが、どこも行列ができている。さぬきうどんメインの旅なら並んでもよいが、私たちには行くべき場所がある。

がもううどんの「本日終了」の札を見たのち、山下うどんで本日2杯目にありつくことができた。ここも末永く残ってほしいと思えるうどん屋である。おばあちゃんがいるレジの脇で若い世代もテキパキと動いているので安心する。

山下うどんから車を海側へと走らす。坂出と高松の中間の五色台に「瀬戸内海歴史民俗資料館」という博物館がある。私たちはそこに行けば、瀬戸内海で名を馳せた水軍や水城関係の資料や展示が見られるのではないかと思ったのだ。残念なことにそれらを中心に扱った場所では無かったのでここでは内容は記さないが、漁業に関してはとても面白い博物館であり、私たちは満足して山を下った。

香西から高松市街へと入っていく。何度も走った場所で地図は要らない。高松駅の手前で予讃線を超えて中央通りまで来ると左側に石垣と堀と線路が見えてくる。私たちがこれから目指す高松城である。

城の南東の駐車場に車を止めて城内を散策する。内堀の橋を渡ると立派な櫓が見えるが名前を読むことができない。すぐに仲人さんが「うしとらやぐら」だと教えてくれる。櫓のある方向が丑寅(北東)なのでそう呼ばれている。ではどうして丑寅が漢字一字の「艮」になるというのか。

長年生きてきて私は何も知らないに等しい。城を十分に味わうためには日本史だけではなく漢文や中国史の素養が必要になるというのか。絶望的な気持ちになるが、少しでも知れば目の前のものが異なる色を持ち始める。その少しを積み重ねていく。

高松城は別名玉藻城といい日本三大水城の一つだという。海水を堀に引いているため、その満ち引きのせいか他の城の堀に比べて水が澄んでいる。桜の馬場から幅の広い内堀に囲まれる天守台が見え、それは二の丸から掛かる鞘橋で唯一周りの土地とつながっている。

その鞘橋から西を見ると、ことでんの高松築港駅に電車が止まっているのが見える。宇高連絡船を降りて徒歩でこの駅まで来て、私は初めて四国で鉄道に乗った。金毘羅さんへ向かうためだ。隣には祖母がいた。今から40年も前のことである。仲人さんと橋を渡りながら私はそんなことを思い出した。

私たちは最後に月見櫓と水手御門を見学して城を後にした。江戸時代この門の先は海であり、藩主はここから船に乗って参勤交代に出かけたという。

「籠ではなくていきなり船ですか。どんなルートで江戸とつながっていたんですかね」私たちはあれやこれやと話しながら車へと向かう。こういう風に時を超えたこと、もう存在しないものについて二人で考える時間がとても楽しく有意義に感じられる。

思えば私たちは今日、讃岐うどんを2杯食べた以外は、普通の人から見れば”勉強”ばかりしていた。見るもの、聞くもの、触れるもの、インプットに対して問いを立てて二人で考えてずっと話をしていた。問いが尽きないから話も尽きない。日も落ちてきた、話の舞台はいつものように居酒屋に引き継がれる。

高松に来ると、いつも4~5杯のうどんが入った状態で夕食を取ることになる。だから私は今までこの街でおいしいお酒を飲んだことがなかった。しかし今回は朝のたむらと昼の山下うどんだけである。私たちは古馬場町で居酒屋をハシゴし、いい気分で〆のうどんを探した。

候補は鶴丸と五右衛門であったが、夜遅くにもかかわらずどちらにも長蛇の列が。全くここの人は本当にうどん好きだ。私たちは、私がかねてより気になっていたラーメン店でおでんをあてに最後のビールを飲み、〆のラーメンでお腹を満たした。いい一日だった。

後編へ続く

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。