18切符
月日の経つのは速いもので、私と二人で旅行していた次男は今では何事もなかったかのように一人旅にでるようになった。この1年間を見ても広島、北海道、北陸と学校が長期休暇に入るたびに一人でどこかへ出かけ少したくましくなって帰ってくる。
次男はまだ高校生で、私が多少の援助はしてあげるができるだけ旅の費用を抑えたい。そんなわけで彼は青春18きっぷをよく利用して旅をする。今年の冬も高松にうどんを食べに行きたいということで、私は彼に18切符をプレゼントした。3日分残して帰宅し、残りは使う予定がないという。
これが夏休みなら金券ショップに持ち込み多少私の小遣いを取り戻せるのであるが、冬は有効期間が短く売れそうにない。そのままではもったいないので私たち夫婦は日帰りでどこかへ出かけることにした。
本音を言うと私は日帰りで丸亀辺りにうどんを食べに行きたかったが、これからのことを考えて「あなたの好きな場所に行こう」と訊ねると妻は「伏見稲荷に行きたい」と答えた。
伏見稲荷に行き酒蔵を見学して昼飲みするのも魅力的であったが、私はどうしても京都に行く気にはならなかった。もちろん京都には魅力的な場所が豊富なのだが、コロナ禍から観光が回復している今、人が多すぎて疲れるのだ。普段ならそれもアリだがこの日は仕事始めの前日、正月休みの最後であった。静かな場所でゆっくりと過ごしたかった。
私たちはいろいろと話し合って滋賀県の草津に行くことにした。何気なく「草津」といっているが、おそらく普通の女子は滋賀県で積極的に草津に行こうとしないであろう。最近スイーツで脚光を浴びる近江八幡や街並みが素敵な長浜なら女性を引き付けるが、それらに比べて草津は一歩も二歩も地味である。
この街は江戸時代に東海道から中山道が分かれる主要な宿場町で、そのことを妻に話し「分岐点に立ってみようよ」というとあっさりと草津行きを了承してくれた。こういうふうにあまり女子らしさを追い求めないところが妻のいいところだと思う。
実は私には草津に行きたい理由がもう一つあったのだがそれは後述する。私たちは二日分(二人分)残った18切符を手に新快速に乗り込み東へと向かった。
価値ある建物
観光客でにぎわう京都駅を通り過ぎ、昼前に草津に着くと観光案内書で地図をもらい街へと出る。比叡おろしのためか外は肌寒い。旧中山道を京都方面へ歩いて行く。近代的な建物の多い駅前から少し離れると、時代を感じさせる建物がぽつぽつと現れ始める。
間もなく一目見て天井川であるとわかる地形が現れ、その下のトンネルを潜り抜ける。そこは旧草津川で現在は公園となっている。トンネル西出口の左手に道標があり、まさにその場所が私たちの今回の目的地の一つである東海道と中山道の分岐点であった。
私たちがほんの少し歩いた中仙道はそこで終わり、南へ行くと京都へ向かう東海道に変わる。そこを旧草津川上流に向かって左折すると江戸へ向かう東海道になる。
天井川をくぐってすぐの三叉路。一見何でもないような場所であり、実際に現在では何でもない場所であるが、時代をさかのぼるとこの国でも有数のジャンクションであった。大名から商人や庶民まであらゆる階層の人たちがここを通って上方や江戸や伊勢へと向かっていった。仮にこの辻に江戸時代から監視カメラがあったとすれば、その当時のあらゆる有名人たちが映っていたであろう。
私はこういう場所に来るとぼーっと頭の中で昔に思いを馳せるタイプの人間である。たぶん1時間でもこの場所にいて空想をすることができる。妻は目的を果たしたらどうでもいいようで、近くの前衛的なモニュメントにいたく感動しているようだった。
私たちは三叉路のすぐ近くにある本陣跡を見学した。ほとんど予習をせずにこの街へやってきたのであるが、ここを見ることができて本当によかった。参勤交代のために全国の街道沿いに数多く整備された本陣であるが、草津宿のものほどの立派な建物が良い状態で残されているのは珍しいという。
なるほどかなりの規模の木造の建築物で、説明によると建坪が468坪で部屋が39部屋あるという。畳敷きの廊下を歩きながら両側の部屋を交互に見ていく。奥に行くほど部屋の格式が上り、一番奥に大名たちが泊った上段の間が現れた。
先ほどの分岐点に続いて私の空想(妄想?)が始まる。畳は変えられているとしても柱や襖は当時のものであろう。大名たちが触れた部分には、まだその皮膚を構成する分子の一つぐらい残っているのだろうかと考えてしまう。
上段の間の隣には護衛が隠れた鞘の間、その奥には主客専用の上段雪隠があった。大名たちは畳に縁どられた便器で用を足し、その下はカートリッジ式になっており御典医が便の状態を見て健康状態を確認したという。私はこの雪隠を見るためだけでも神戸から草津に来る価値があったと思った。
タイトル回収
本陣から東海道を南(京都方面)へと向かう。別にどこに行かなければならないことはない。二人で街並みを眺めながらブラブラと歩く。細い路地を入ってみる。奥にお寺がある。もっと細い路地を入る。そこには祠があった。路地は鍵の字に折れてさらに奥へと続いている。
今から新しい街を作るとすれば絶対にない町割りである。200年前には何でもないような街でも、時代が経てば魅力ある場所に変わる。しかし、その時々に暮らす人々はそんなことを考えている余裕がない。
旧東海道のメインストリートも、道幅はそのままであろうが大半の建物は建て替えられてしまった。この街には70件の旅館があったという。仮にそれらの建物が残っていたとすれば、この街はドイツのロマンチック街道の街のような、世界的な観光地になり賑わっていたかもしれない。それが地元の人々にとって幸せなことかどうかはわからないが。
しばらく散策し、私たちは小さなイタリア料理店に入り昼食をとった。しかし、その店はランチでアルコールを提供しない店だった。昼飲みを楽しみにしていた私たちは、またしばらく散歩して小腹をすかして駅近くの居酒屋へ行くことにした。
さて、お酒を飲む前に私にはどうしてもしておきたいことがあった。それはこの街の近鉄百貨店で買い物をすることである。買うものは決まっていた。酒器である。その理由を今から説明する。
旅行好きの私たちは結婚する前から二人でよく旅に出た。私が鉄道好きなので遠くであっても主に列車で出かけて行った。妻は鉄オタではないが列車に長く乗るのが好きという変わった人で、私のわがままに付き合ってくれた。
私たちは結婚し、やがて妻は長男を身ごもった。今まで自分たちのことだけ考えていればよかった生活が変わった。妻は体調を崩し入院をした。退院した後も不安定な状態がつづいたが、何とか長男は無事に生まれてきてくれた。
生まれたら生まれたで長男は妻をゆっくり寝かせてくれなかった。私も隣で疲れていた。今から思えばそれが子どもを育てるということだろうが、当時の私たちには余裕がなかった。いつになったらゆっくりと眠れるのだろう、いつになったらまた旅行に行けるのだろう、そんなことをよく考えた。
たいそうな風に書いたが、これも今幸せだから語れること。夜中30分毎に起きて妻を困らせていた長男もハイハイする頃には落ち着いてきた。私たちは3人での初めての泊りがけの旅行をすることにした。何かあった時すぐに神戸に帰ることができる場所がいいということで滋賀県の彦根に泊ることにした。ここなら新快速1本で帰ることができる。
長男は退屈であっただろうが、私たち二人は久しぶりの旅行を楽しんだ。そして神戸に帰る途中、草津のこの近鉄百貨店に立ち寄った。彦根を観光した私たちが、どうしてわざわざ草津で下車したのか思い出すことができない。考えられる理由とすれば、列車に乗っていて長男のおむつを替える必要に迫られて下車したということぐらいである。草津の人には失礼であるが、当時の私たちには草津で降りる予定も理由もなかったのだ。
とにかく私たちは草津駅前の近鉄百貨店に入り、そこで何か記念になるものを探した。買ったのは一合徳利とお猪口二つであった。授乳のためにお酒をやめていた妻もそのころになったら少しは飲めるようになっていた。私たちは家に帰り、その酒器で家族三人での初めての旅行に乾杯した。
あれから20年の月日が流れた。一言で書くにはあまりにも長くて大切な時間であるが、振り返ればほんの一瞬の出来事のように感じられる。長男に続いて次男が生まれ、私たちは4人でよく旅に出かけた。子どもたちは成長して、少し前の記事に書いたように4人での旅行も不自然な年ごろになった。
私たちは再び二人で旅をする時代に入った。20年前と同様に何か記念になるものがほしかった。私は妻に酒器を買うことを提案した。二人から三人での旅が始まったあの時と同じ場所で同じようなものを買うのだ。
20年ぶりの近鉄百貨店は他の多くの地方の百貨店と同様に売り場の構成が変わっていた。一言で言うと衣類が占める割合が減り、庶民的なグッズやサービスを提供する場所が増加しているのだ。百貨店は流行の服や良いつくりの生活用品を買い求める特別な場所ではなくなっている。しかし、まだ百貨店が残っているだけよいであろう。大津の西武が閉鎖されたのち、ここは滋賀県唯一の百貨店となってしまった。
そのような変化の中はたして食器売り場は残っているのかと心配したが、規模は小さいものの3階の一角に残っていた。私たちはいくつかの候補の中から銅製のタンブラーを二つ購入した。
家に帰り私たちは買ったばかりのタンブラーにビールを注ぎ乾杯した。どちらからともなく「これからもよろしくお願いします」の声が出た。私たちは歳を重ねるごとに節目を迎えていく。そして人生は分かれ道、選択の連続である。そう考えると日本で最重要の三叉路のあった草津の地のデパートで特別なときに特別なものを買うのは理にかなっていると、私は一人合点した。