それでも今日・明日を

義父の家で

2024年元旦の午後、私は一人で今年のサウナ初めを行いそのまま義父の家へと車で向かった。新年の挨拶をするためだ。義父は今一人で暮らしている。

挨拶を済ませてお茶を飲みながらダラダラと話をする。妻や子供たちは神戸にいて明日ここにやてくることになっている。私は義父との関係がよく、こうやって二人だけで話をすることが多々あるのだ。

正面のテレビは、日本対タイのサッカー中継を行なっている。日本が5対1で勝利しインタビューが始まった。適当にテレビを見ながら話をしていると、突然警報音が鳴った。あの半音高くなる不安定で落ち着かない音だ。

能登半島に地震が来るという。この警報は地震のP派をとらえて発せられる。「P波とS波」何も考えずに記憶していたが、ひょっとしてと思ってネットを調べた。やはりPrimaryとSecondaryだった。

「一つ賢くなった」と思った頃、画面に震度が表示された。津波の心配はないという。そのうちサッカーのインタビューに戻るかと思ったが、再びあの音が鳴った。テレビの画面は珠洲市役所のカメラへと切り替わった。カメラの向こうで土煙が上がったように見えた。

「まさかそんな大きな地震が来るなんて」と思った時、アナウンサーの声のトーンが変わった。「津波がきます」「逃げてください」と普段のニュースではありえないような切迫した声で連呼していた。

テレビからはあの警報音が数分おきに続いていた。こんなに短時間の間に続けて大きな地震が来るものかと思った。テレビの絶叫は続いている。私と義父は黙ってテレビを見続けた。

30分、1時間と時間が過ぎていく。中継の画面が薄暗くなっていく。街の様子がよくわからない。画面の向こうで何か信じられないようなことが起こっていそうで恐怖を感じた。

新しい年を迎えてまだ16時間しか経っていなかった。

人間の宿命

翌日、明るくなると被害の様子が明らかになってきた。輪島の市街は大きく焼かれていた。ビルが倒壊し、多数の家屋が押し潰されていた。画面から見えるそれらの下には、まだ多くの人が埋まっているという。

私は考えた。一年が始まるこの日、多くの人が家族と共に神社に行き神様に祈りを捧げたであろう。今年も健康で健やかに過ごせますようにと。久しぶりに再会する家族や親戚や友人と楽しい時を過ごしていたであろう。

そんな幸せな1日が一瞬のうちに地獄へと変わってしまう。「幸せだ」と思った次の瞬間に命を失ってしまう。一体これらの人々は何をしたというのだ。

私は30数年前に高校の英語授業で読んだイソップ物語の狼と子羊の物語を思い出す。

小川で水を飲む子羊に狼が「俺の飲む水を汚した」と言いがかりをつける。

子羊が自分は下流にいるのでそうすることはできないと弁明すると、今度は「お前は1年前俺の悪口を言った」と因縁をつける。

子羊は再び自分は半年前に生まれたばかりだと説明をするが、腹の減った狼は子羊を食べてしまう。

おそらく現在では受け入れられないタイプのストーリである。誰もが最後は子羊が狼を打ち負かしてハッピーエンドになることを望むであろう。

しかしイソップ物語ではそうはならなかった。あの時、男性教師が音読した”gobbled it up”という不気味な音がいまだに私の耳に残っている。gobbleは「ガツガツ食べる」という意味でitが指すものはもちろん子羊である。

私はこの寓話を時々思い出すことにしている。数千年にわたって語り継がれてきた話には、人間の本質をつく何かがあると考えるからだ。そして、その何かとは人間は不条理な世界に生きなくてはならないという宿命である。

誰にもわからない

私たちは不条理な世界に生きている。そのことは普段あまり意識することはない。善い行いをしている人は人に好かれがちであり、結局はよい人生を送ることができそうである。また反対に悪いことばかりしていると、人が遠ざかり幸福も逃げてしまう。生きている実感として、たいていの場合はその因果関係は当てはまる。

しかしながら、時に私たちは自分たちの持つ”よい・悪い”の基準が全く当てにならないと思うほどの出来事に出会うことがある。自分たちの想像できる因果関係では説明できないほどのできごとである。

言葉は論理であるから、私たちは身の回りに起こることを言葉を用いて説明しようとする。普段はそれでも事足りるが、それを超えた何か支配者の存在、向こうは私たちのことが丸見えであるがこちらから見ると暗闇のようなものが現れた時、私たちは沈黙するしか手段がない。

わかっているようで何もわかっていない、見えているようで何も見えない、そんな世界に私たちは住んでいる。

これを書いている瞬間にも世界中で不条理な苦しみや死を迎えている人々が多数いる。それは誰であっても、もちろん私自身にも降りかかる可能性がある。

私がどんなに神や仏に祈りを捧げ、この世界で”善行”と呼ばれる経験を積んだところで、いつ私や私の周りに不条理な苦しみが押し寄せるのかはわからない。

「どうしてこんなことが」と思うようなことがあったとしても、私たちは今日、そして明日を生きていかなくてはならない。私たちが投げ込まれている世界は、常に私たちに先行しているのだ。このことを私たちは時々思い出し、受け入れて生きなければならない。悲しくて辛いことであるが、そんな世界に私たちは生を受けてしまったのだ。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。