三種の
私は沼にハマってしまった人間です。沼の名前は「語学の沼」と言います。語学を学ぶことは一筋縄ではいきません。意識して絶え間ない努力を続ける必要があります。
友人のフィリピン人が言っていました。
「フィリピンでは小学校低学年から英語を学ぶ。英語ができないと何かを学ぶことができないし仕事もない。つまりいい暮らしができない」
彼の国で英語ができるということは「国際社会の中でどうのこうの」というレベルではなく、それなしではまともに学ぶことも生活することもできないことを意味するのです。だからほとんどの人は好き嫌いに関わらず英語を話します。
私の住む国日本では英語ができなくても困ることはあまりありません。どんな学問も母国語である日本語でアクセスすることができますし、映画や文学などの文化も日本語だけでかなりの市場が成り立っています。仕事で日本語以外の言葉を使う必要もほとんどありません。
それであるからこそ、外国語を学ぶためには「意識して絶え間ない努力」が必要になってくるのです。使う機会や必要がないことを、意識を集中して時間をかけ継続し続けなくてはならないのです。これは結構大変なことだと思います。
そんな語学の沼に私はハマりました。私がハマった沼は普通の沼とは異なります。三種類の異なる泥から成り立っています。英語とイタリア語と台湾語という名の泥です。
英語はまだいい方です。他の二つの言語に比べると使う機会も多いし、教材も豊富にあります。イタリア語は街場ではほとんど使うことがありません。台湾語に至ってはその存在を知っている人が私の周りにはほとんどいません。私の学ぼうとしていた台湾語は国語である台湾華語とは異なり、台湾南部の正書法がまだ確立されていないローカルな話し言葉です。
これらの言葉を一度始めたら最後、自分の力が落ちるのが怖くて途中でやめることができません。と言いつつ私は今までイタリア語の学習を何十回もやめては再開してきました。仕事が忙しすぎる時です。台湾語に至っては「勉強している」というレベルではないかもしれません。少しテキストを音読しては、しばらく放置してを繰り返してきました。
語学をやっていて楽しいのか苦しいのか、それがわからないまま時間だけが経過していきました。
五年前、私は必要に迫られてこのブログを書き始めました。自分の気持ちを文章に綴って心を調節しないと、自分が壊れてしまいそうでした。
文章を書きながら、私の苦しめている語学の沼の存在が明らかになってきました。私は気持ちを楽にするために目標を持ちました。英語は英検1級、イタリア語はイタリア語検定2級が取れたらそれ以上気張ってやらなくてもいいじゃないか、そう考えました。台湾語は検定がないので、英伊の目標が達成できたら適当に勉強しようと考えました。
捨てました
「沼から自由になりたい」そう思って進んでいきました。ブログを始めた翌年、2020年に私は英検1級を取りました。同じ年、イタリア語検定2級も受験したかったのですが、私は妻と一緒に日商簿記3級の勉強を始めてしまい、そちらの取得を優先したためこの年は受験しませんでした。
翌2021年から3年連続で私はイタリア語検定2級に落ちてしまいました。2021年は全国通訳案内士の試験と重なったため勉強不足ということがありました。しかし、直近の二年は隙間時間を探して勉強しましたが、結果的にどちらも一次突破には2点足りませんでした。
私は2022年に決断をしました。「今までダラダラとやっていた台湾語を封印しよう」と。よくわかっているのです。何かを得ようと思えば何かをやめなければならないのです。
そして、うまくやっている人は身軽なのです。私のように色さまざまな「〜しなければならない」に囲まれながら自分の思い通りの成果を得ている人はほとんどません。
「台湾に行ったら多くの場所で日本語が通じるじゃないか。それに英語ができたらなんとかなる」
私は自分にそう言い聞かせました。台湾語関係のテキストは押入れの中の本棚になおしました。iPodの台湾語関係の音声は削除しました。
私は英語とイタリア語学習に集中することにしました。
なぜ学ぶ
そんなこんなで台湾語から遠ざかった生活が2年ほど続きました。私の英語とイタリア語の力は伸びているのでしょうか。自分ではよくわかりません。学習を続けていても私の思考力や認知力は加齢とともに落ちていきます。現状維持が精一杯かもしれません。
客観的な力を知るためには検定を受けるべきなのですが、なんとそのイタリア語検定の2024年度の開催が中止となってしまいました。受験者減少による財政的な問題であるということですが真相はわかりません。
直近の目標を1つ失った私にあるものが近づいてきました。
手前の本「たったの72パターンでこんなに話せる台湾語会話」は私がずっと欲しいと思っていた本です。台湾語のテキストは何冊か持っていたのですが、この本は基本の文型に沿った表現が豊富でわかりやすいと思っていたのです。
書店でこの本に再開した時、私は買わずにはいられませんでした。そしてそれと同じ日、私は押入れの本棚から台湾語の別のテキストを引き出し学習を始めてしましました。
ドラマならここで「やっと自分の本当の心の中がわかったよ」というシーンなのですが、私の場合そうはいきません。英語もイタリア語も私はやめる気はないし、やめられないからです。
結局元の語学の三種沼に戻り1ヶ月が過ぎようとしています。
毎日家を出て、ポッドキャストでいずれかの語学を聴きながら駅へと向かいます。電車の中ではテキストを開きます。最寄りの駅から職場までポッドキャストを聴きながら向かいます。
仕事が終わり家へ帰宅するまでも行きと同じことを行います。
家に帰るとイタリア語→台湾語→英語の順番で学習をします。途中に夕食を入浴を挟みます。疲れ果ててほとんどの場合英語を学習しながら寝落ちします。
休日も基本的にはこの順番で学習を行います。午前中にイタリア語と台湾語を行い、英語を聴きながらサウナに向かい、夕方お酒を飲んで寝るというのがフリーな休日の私です。
これら語学学習に加えて、月に10冊以上本を読み、週に1本ブログの記事を書きます。これら「自分がやるべき」と決めていることをサボると私は気持ちが下がってしまいます。
ここまでして語学を中心に学び続けなくてはならないものか、自問自答することもあります。こんなにも自分を追い込み続けるとは、自分はMなのかと思います。
私は有限な自分の時間を何かと折り合いをつけながら使っていかなくてはなりません。他人から見たら、私の時間の使い方はバランスが偏ったものに見えるでしょうし、自分でもそう思います。わざわざ時間と労力をかけて苦しいことをしなくてもよいのではと思います。
それでも私がイタリア語や台湾語にしがみついているのは、イタリアや台湾の地を楽しそうに放浪しているモヤモヤから脱出した中年オヤジ、つまり私の姿がはっきりと見えるからです。なんだかんだあってもそうやって現地て言葉を使用すると、急速にそれらを吸収し「今まであきらめずにやってきてよかった」と満足している自分の姿が見えるからです。
イタリア人や台湾人も英語を学んでいるはずですし、台湾では日本語も通じます。でもそうじゃないんです。私は彼らの言葉で話をしたいし、現地の言葉を話す私を見て彼らが感心する姿を見たいのです。
さらにイタリア語や台湾語といった言葉を自分の一部にすることで、違った自分になりたいのです。私の考えることは私の使う言葉によってできています。外国語を自分の一部にすることで今まで想像もつかなかった自分が現れる、そう考えるだけでワクワクがとまらなくなるのです。
台湾語をまた再開してしまいました。これで一日の内、一定の時間を一定のことに使うことになりました。また「時間がない、することが多すぎる」と苦しむかもしれません。それもまた私の人生です。その先にあるワクワクを信じて私は進んでいきます。