三人で名古屋へ
「一緒に名古屋で美味しいものでも食べようか」
大学生の長男をさそってみたが「大学が忙しいから」と断られてしまった。昨年の11月、家族四人で福岡へ行った。私と妻は大相撲を観戦して、息子たちはそれぞれ思い思いに過ごした後、四人で居酒屋に行ってホテルに泊まった。
成長した息子たちには親と一緒ではなく、自分たち一人で訪問したい場所がある。それでも夜は付き合ってくれた。家族旅行と呼べるかどうかの微妙な旅であった。今回私と妻が名古屋場所を観戦するにあたって福岡の再来を期待したのだが、長男にはあっけなく振られてしまった。次男はなんとかついてきてくれたが「相撲を一緒に見ようか」の誘いはあっさりと却下された。
結局私たち夫婦は一緒に行動し、次男は移動の列車と夜だけ私たちと過ごすことになった。名古屋訪問を終えて「昔と今」についていろいろと頭に浮かんできたので、それらを思いつくまま記してみたい。
初瀬街道
近鉄大阪線は奈良盆地の南側を東西に横切る。大和八木を過ぎて平地が尽きると、榛原へと向かってまっすぐな谷を進んでいく。こんなに直線的な谷は珍しくおそらく断層によって形成されたものであると考えられる。
この谷に沿って東西に走る道は「初瀬街道」と呼ばれていて、上方からお伊勢参りをする人々がかつて歩いていた道である。途中に西国三十三箇所の一つでお花で有名な長谷寺がある。
眼下の谷筋が江戸時代の伊勢街道であったことと、私たちが乗っている鉄道がもともとは大阪から伊勢神宮へ参拝客を運ぶ目的で作られたことを次男に伝える。彼は窓に顔をつけ、時々スマホで地図を見ながら外を眺めている。彼の目には何が見えているのだろうか。
自分の生まれた藩を出ることなどほとんどなく一生を終えていた時代に、お伊勢参りは庶民に許された数少ない旅の一つであった。お金を出し合った「講」で選ばれた人々が、一生に一度の旅でこの道を歩くときの高揚感はいかほどだったであろうか。高速で勾配を登る近鉄特急の窓から、私は200年前の庶民の晴れ姿を想像した。
愛知県体育館
今回名古屋場所が始まりNHKをつけると毎日のようにアナウンサーが言うことがある。
「今年が愛知県体育館での最後の名古屋場所になります」
私はこの体育館に2年前に初めて訪問した。大きな体育館だと思った。市街地に近接する他の相撲開催場所とは異なり、ここは広大な名古屋城の敷地内にある。開設は1964年だという。今からちょうど60年前である。
私は思った。「こんなに立派な建物なのに60年経ったら使えなくなるのだろうか」。もしかしたら老朽化以外にも別な理由があるのかもしれない。この60年間で建物の耐震基準も変わっている。これ以上に大きな施設が必要なのかもしれない。
しかし、概して日本の建物は寿命が短いと感じる。木造の家はいうに及ばず、鉄筋コンクリートの建築物であっても五、六十年、早ければ四十年もしないうちに建て替えてしまう。
名古屋でいえば名鉄の名駅ビルが近鉄ビルと合わせて建て替えられるという。大阪でも梅田の丸ビルが最近取り壊された。神戸でも三宮駅東のサンパルビルが再整備のために更地になった。「もったいないなあ」と思うが、経済効率が優先されるこの国では仕方のないことなのかもしれない。
結びの一番が終わり体育館を出るとき「もうここに来ることはないのだ」と思うと寂しさを感じた。
ミヤコ地下街
私たちは名古屋駅から少し歩いた場所にあるホテルに滞在した。私は早起きして一人ポッドキャストを聞きながら散歩した。信号で待つのが面倒なので地下に入る。名古屋駅周辺は地下街がよく発達している。私は駅の北側から南へ向かって歩く。
JRと地下鉄を超え、名鉄と近鉄を通り過ぎると地下街はなだらかに左へカーブし90度曲がって東へと向きを変える。この辺りは「ミヤコ地下街」と呼ばれている。かつてこの地下街の終点には名古屋都ホテルがあった。
今から三十年近く前、大学生だった私は恩師に連れられてこのホテルに泊まった。彼は私が教師を目指すきっかけになった人であり、また私の知らない世界に住む人でもあった。
その時は恩師が好きであった競馬に付き合っての名古屋訪問であった。都ホテルでも中京競馬場でも、私は恩師の人脈の広さを感じさせられる経験をした。名古屋場所開催中であったため、夜は地元のタニマチや力士と同席させていただいた。
名古屋訪問から数年して恩師は亡くなった。
あの時競馬新聞を手に先生と一緒に歩いたミヤコ地下街を、私は三十年前を思い返しながら散歩する。改装されているが空き店舗が目立つ。突き当たりの階段を上がる。立派なホテルであった建物はそこになく、キレイなオフィスビルへと変わっていた。
都ホテルはなくなり、ミヤコ地下街という名前だけが残った。先生とこの地下街を歩いたことを、私は名古屋に来るたび思い出す。
岡崎にて
相撲観戦の翌日は妻と岡崎を訪問した。名鉄電車に乗って尾張から三河へと移動する。地図で見ると知多半島の付け根あたりに国境があるはずであるが、車窓からはわからない。昔は別の国であっても今は一続きの愛知県である。
矢作川を渡るとすぐに岡崎公園が見える。私たちは電車を下車しそこを目指した。うだるような、それでいて近年では当たり前となった夏の暑さの中、城内へと歩みを進めていく。
ここ岡崎城は言わずと知れた徳川家康生誕の場所である。場内には生湯に使ったと言われる井戸や臍の緒を埋めたと言われる塚がある。私たちは天守閣のあと、北側にある「三河武士のやかた」を見学した。
特別展で現代の刀鍛冶の作品が数多く展示されていた。実用品として刀剣が使われなくなった今でも、こんなにも刀を作る職人がいるのかと驚いたが、美術品として需要があるのであろう。
こうして博物館で刀剣を見るたびに思うことがある。それは、かつてこれらが人に対して振り回されていた時代があったということ。ほんの150年ほど前までは、この刃渡り70センチもあるような武器を腰に歩き回っていた人が普通にいたということ。
「本当にそんなことがあったのか」と現在に生きる私は思ってしまうが、同時に「こんなものをお互いに振り回す状況にいなくてよかった」と安心してしまう。
ただ、死へ至る事故はいつの時代でも存在し、刀で切られる心配はしなくてもよいがかつて存在しなかった車によって年間数千の命がなくなっている。さらに、現在日本は年間二万人が自死を選ぶ時代である。はるかに生活が貧しかった江戸時代にこの数字が当てはまるとは思えない。
幸せとは何か考えさせられる岡崎城訪問であった。
「昔と今」に関して思いつくままに記してみた。どのようなものであっても常に変化するのが世の常であり、そのことは古の時代から数多くの人により語られ続けてきた。変化の割合は事柄によって異なり、中には100年程度では変わらないものもある。
旅の最後に私たちはこの地の特産品である八丁味噌の蔵を見学した。室町時代に創業したその会社は家康の時代から変わらない材料と製法で味噌を作っているという。
蔵に入ると大きな木と竹で作られた樽が並んでいる。中には大豆と塩と麹と水で作られた味噌が仕込まれており、麻布を挟んで上には丸い石が円錐状に積み重ねられている。人工甘味料もプラスチックもビニールも使われていない。確かに数百年前にも存在したものだけで作られている。
全てが変わりゆく中で、数百年変化しない八丁味噌を見ることができて安心した。なぜ「安心」という気持ちになるのか。それは変化を自分に当てはめて考えると、その先に見えてくるのは必然的に死であり、私は常にそれを恐れているからである。
私は八丁味噌の出汁で煮込まれた味噌煮込みうどんを食べた。夏の最中冷房の効いた店内で、火傷しそうなほど温められたうどんを冷えたビールと共に食べられる時代に生きられる幸せに感謝した。