汗かいて汗

2泊3日

高校教師をしていて「自由でいいな」と感じる時がある。それは学校が夏休みの間比較的自由に休みを取りやすいことである。とはいってもそのことが全ての高校教師にあてはまるとは限らない。むしろ、例外的な一部の教師だけのような気がする。そして私は今、その例外的な状況にある。

かく言う私も夏休みを比較的自由にアレンジできるようになったのは最近のことである。仕事を始めて20年近くは運動部の顧問を持っていた。しかも未経験種目の運動部である。前任者が熱心に取り組んでいたため、私もその勢いを引き継いで部活運営を行なった。練習試合や合宿で夏休みはほとんどなかった。

部活以外にも、英語を教えているため学校によっては補習と勉強合宿で夏が終わってしまう。大学受験を行う高校生の科目別学習時間を考えると、英語はダントツで1番長く勉強される科目であろう。だから夏休みも英語教師は大人気である。というか自分たちで補習を設定し忙しくしている。進学校にはそうせざるおえない雰囲気がある。

いろいろと忙しい夏を経験してきたが、幸いなことに今は夏の時間を自分でコントロールしやすい立場にある。だから私は自分のため、自分の親のために時間を使うことにした。

ここ数年日帰りや1泊で実家に帰省し、米づくりを手伝うことはあった。しかし今回は2泊3日の間、私は両親のために働いた。親がそれを望んだわけではない。しかし、猛暑が続く中、高齢の親が痛む体に鞭打って農作業する姿は想像したくなかった。

作る作物の多くは私たち家族のもとにやってくるのだ。私が手伝いに帰るのも当然のことである。それに、親はいつまでもいるものではない。できる時に一緒に働いて、その思い出と共に知恵の一部も受け取っておきたい。

様々な思いを胸に、私は実家へと車を走らせた。

田んぼにて

この3日間でいったいどれだけ汗をかいたであろうか。雨の降りそうな気配の全くない中、私はつばの大きなカウボーイハットにサングラス、着古した長袖のドレスシャツにジーンズという姿で動き回った。

軽トラに道具一式を積んで田んぼに向かう。6月にも肥料を機械で撒いたがどうやら分量を間違えたらしい。父親が言うには稲の育ちが良くないらしい。追加の肥料を撒く必要がある。

風で飛ばす機械に肥料を入れてエンジンをかける。機械を背中に背負いノズルを田んぼの中央に向けてエンジンの出力を上げると、粒状の肥料が勢いよく飛ばされる。あぜの周りを歩きながら、均等になるように注意しながらノズルと出力を調整する。

肥料が終われば次は草刈りだ。前回刈ったのが1ヶ月前であるが、あぜ草は信じられないぐらいの勢いで成長している。しかもこの一月の間に草の種類が変わっている。

植物に関する知識がないためうまく説明できないが、柔らかい種類の種から、しっかり根を張って葉っぱの硬そうな種類の草が多数を占めるようになっている。

刈り払い機のナイロン製のワイヤーを当てると面白いように飛び散っていた草であるが、今回は制圧するのに倍ぐらいの時間がかかる。足腰の痛む父親も金属製の刃をつけた刈り払い機で、時折休みながら参戦する。

雨が降らなくあぜが乾いているせいか、草の中にはやたらとバッタが多い。刈り取る前の草を足で蹴ってみる。数十匹のバッタが一斉に飛び上がる。私は少し大袈裟な動きで刈り払い機を草に当てる。

「バッタよ早く逃げてくれ!」そう祈りながら機械を動かす。そうは言っても、この日私は数千匹のバッタを殺めてしまったであろう。しかし虫がこんなにもいるということは、私の田んぼでは殺虫剤を使っていないということ。いずれにせよ、お米を食べるということは虫たちの屍の上に成り立っているということ。

庭+墓+車庫

大正生まれの私の祖父は、当時は多くの人がそうであったであろうが、貧しい中豊かさを求めて苦労して働いてきた。その反動であろうが、彼は家を建てる時、和風の庭を求めた。

末期がんになり自宅で療養していた時、何度も縁側で体を支えてもらいながら自慢の庭を眺めていた。いろいろな植え込みがあり、真ん中に鯉の泳ぐ池がある、そんな庭だ。一年に数回、祖父は庭師を雇って庭を管理していた。私がまだ10代の頃の話である。

祖父が亡くなると父親が庭を引き継いだ。父親は和風の庭には興味がない。管理が面倒なので池の水は抜かれ鯉は川へ放たれた。中途半端なまま庭が残された。しかしそこには容赦無く草が生えてくる。

「いっそ更地にでもしてしまったらいいのに」

そう思いながら私は選定鋏で枝を切り、草を引き抜く。蜘蛛の糸が顔にまとわりつき、ジーンズの色が汗で変わっているのがわかる。

いずれはこの庭の管理も全面的に私にかかってくるのである。「どうしよう、どうしよう」そう思いながら私は動き続けた。

実家から車で5分の山すそに私の家の墓がある。墓石の横に墓誌があり、祖父母の名前が刻まれている。私はその墓誌を見るたびにブルーになる。いずれ祖父母の横に父と母、その左に私の名前が入る日が来ると想像してしまうからだ。今はツルッと滑らかな石の表面にいつか私の一文字を用いた戒名が刻まれる。

私は嫌な想像を忘れようと体を動かした。蚊取り線香の入ったカゴを腰にぶら下げ、手には刈り込み鋏を持ち、墓地の二方を囲む垣根を平らにしていく。そんなに大きな垣根ではない。

しかし私はこの年になるまで垣根を刈ったことがなかった。なかなか思うように枝葉を刈ることができない。散髪と同様に外から見ている分には簡単そうに見える。

確かに、枝葉が均一の形で柔らかく生えていたら楽であろう。実際にはそれらはさまざまな方向に伸びたさまざまは硬さの部位の集合体である。自然な形を不自然な枠に収め、あたかもそれが自然であるかのように見せるという作業が刈り込みである。

母親は墓石を磨き、父親は剪定鋏で目立つ枝を落としている。「次にこの中に入るのは誰だろう」そんなことを考えながら私は必死で体を動かした。汗ビッショリのシャツが蚊取り線香の匂いと混ざり合いドロドロになった。

私の実家の母屋の横にはトタン張りの車庫がありその2階は倉庫になっている。トタンは10年に一度程度ペンキを塗り直さないと劣化が進み、いずれかはサビで穴が空いてしまう。

私は自分の実家の車庫のメンテナンスが行われていることすら今まで意識してこなかった。しかもそれを行なっていたのは父親だった。

「業者に頼むと高いから」

そういって父は自分でメンテを行なってきた。実家を離れて30年以上経つが、今までそんな父親の姿を見た記憶がない。私がいかに今まで何も考えてこなかったかを物語る例である。

今年の3月に父親と足場を組んだ。6月に高圧洗浄機で表面の汚れを落とした。そして今回、天気が続きそうだったのでペンキを塗った。足場の3段目はかなりの高さがある。父親に落下防止ベルトの扱い方を教えてもらい、何度も確認しながら足場に立つ。

薄め液を混ぜたペンキをローラーで塗りつけていく。これも私にとって初めてのことである。昔読んだトムソーヤの冒険で、トムが罰としてやらされたペンキ塗りを楽しそうにして見せて、最後には友達にやらせてしまうエピソードを思い出した。

私は35度に迫る暑さの中、汗と冷や汗をかきながらなんとか足場のある部分を塗り終えた。これでも一つの側面の半分にも満たない。次回帰省した時、再び塗っていない部分の足場を組むところから再開である。一体全部塗るのにどれだけかかるのだろう。

仕上げの発汗

3日間にわたってとにかくよく汗をかいた。自分の両親と、これだけ一緒にいて作業したことはひょっとしたら生まれて初めてかもしれない。

最初の二日間は、作業が終わると車で街の銭湯に行った。サウナで汗をかき、水風呂で体を冷やし、外気浴で頭と体を休ませた。三日目は、神戸に帰るとすぐに馴染みの銭湯に行って同じことを行った。

今までの人生の中で1番といっていいほどの汗をかいた後であるにもかかわらず、たまらなくサウナで汗をかきたく思った。サウナに入り頭をリセットさせたかったのだ。

今から私は全てのことに向き合っていかなければならないという思いがそうさせた。親が老いていき、私自身も歳をとる。そんな中、田畑は放っておけば荒れ果て、実家の庭や墓は草むし、車庫のペンキは雨風に劣化させられる。

自然の状態では全てのものが移り変わっていくからこそ、それを引き留めておくためには意図的に人の手を入れていく必要があるのだ。そして、その人はいつまでも同じ状態ではない。

どこかで折り合いをつけ、どこかで妥協し、どこかで満足しなければならないのだ。

希望はある。そのかわり行く世の中の常を意識しながら、それを嘆かずに自分ができることを楽しめばよいのだ。

「それでは次は何をしようか。汗をかくことで何を楽しもうか」

外気浴で風に吹かれながら私は考えた。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。