先輩との会話
令和元年末のある一日。その日は午後から先輩のB氏と一緒に仕事をした。B氏とは昨年9月にシアトルへ一緒に出張をした間柄。部署は異なるが、たまに同じ仕事に携わることもある。B氏とは性格がかなり異なるが、そこそこ気が合い、話も弾む。そして僕の仕事ぶりに彼女は一目置いている、と僕の方は思っている。
そのB氏、仕事が終わり帰り際の一言。
「ORCAまだ使えるかなあ?」
ORCA(オルカ)とは、シアトル周辺の公共交通共同体が発行しているICチップの入った交通カードである。
「ORCAに有効期限はありませんけど、どうしたんですか?」
「明後日から娘とシアトル行ってくんねん。プライベートで。」
「この前行ったばっかりですやん!」
旅行好きで今まで多くの場所を訪問したB氏が、お嬢さんとのプライベート旅行の場所に選んだのは、この前行ったばかりのシアトル。よほど魅力的だったのか。
僕にとっては、先輩がORCAのことを覚えていたことが嬉しかった。
実は前回のシアトル出張の際、鉄道好きの私はどうしてもORCAを持ちたくて、空港から移動の際「普通に切符買ったら」という先輩に対し「ORCAあったら絶対便利ですから」といって買わせてしまったのだ。鉄っちゃん(鉄道好き)って本当にややこしい。
出張中、基本的には現地スタッフが車で送迎してくれたが、休日の移動では、バス・トラム・LRTを問わず乗車できるORCAは重宝した。B先輩や他の仲間はどう思っていたかわからないが、「ORCAには有効期限がないからいいじゃないか」と、相手ではなく自分を納得させる理由を探す。
「B先輩はシアトルに行くんかあ」
そう思う僕の頭に真っ先に浮かんできたのは、空港からダウンタウンまで乗ったLRTである。なぜ浮かび上がるのか?それはシアトルのLRTに「やる気」感じるからである。
初訪問前に再訪を決意
もうずいぶん長い間鉄道が好きである。情熱の度合いは別として、焦がれている期間はバイクよりもずっと長い。もの心ついた頃から好きだったといってもいいぐらいだ。
若い頃は鉄道が持つオタクなイメージを気にして、隠れキリシタンのように、人前では興味ないふりをしていた時期もあった。しかし、この10数年間で様子は大きく変わる。鉄道好きの女子「鉄子」まで現れる順風の中、鉄道は一般に広く認知される趣味となった。風向きが変わり、かつての「背徳感の中にある蜜の味」は失ってしまったが、その代わり堂々と挙動不審な行動を行えるようになった。
誤解しないでほしいが「挙動不審な行動」とは法に反して罰せられるようなものではない。好きすぎるあまりに出てしまう、鉄ちゃん以外には理解できない行動のことである。
例えば、列車を降りた後すぐに改札へ向かわないでホームの端へ。次に通過する特急列車を確認してから外へ出る。その列車がディーゼル車だと、深呼吸して排気ガスの匂いを味わったりする。
車を運転中、踏切で止まれば「ラッキー」と思い、窓を下ろして踏切の警報音と列車の走行音を味わう。
仕事帰り、一人歩きながら、突然電車のモーター音やコンプレッサー音を口ずさむ。
気持ち悪いからもうやめる。
そんな私であるから、昨年シアトルへ訪問する前にも、ある程度あちらの鉄道事情を下調べしていた。仕事で行くのだから自由に挙動不審な行動をとるわけにはいかない。しかし、移動中の車からチラリとでも列車や駅が見えたとする。その時、下知識があるとないでは心の中に浮かび上がるイメージががらりと変わってくる。どうせ行くのなら「鉄萌え」しやすい状況を作って行きたい。
幸い私は英語が少し分かるので、あちらの関係ありそうなホームページを順次サーフし、必要があればノートをとる。英語学習を続けていてよかったと思う一時である。
ある程度情報が集まってきてから私は思った。
「こちらの公共交通機関、やる気があるねえ!」
私はシアトルの地を初めて踏む前に、ここを2022年に再訪したいと思うようになっていた。さてその「やる気」とは何か。
Sound Transit 3
ニューヨークなど東部の大都市を除き、アメリカの都市圏交通は車に大きく依存している。シアトルも例外ではなく、ダウンタウンはギュッと詰まっているが、郊外はなだらかに開発されて車が交通の主役である。
しかし、昨今の環境問題に対する意識の高まり、高齢者や車を持つことのできない交通弱者救済などの理由で、公共都市交通網の整備が進められるようになった。その中で鉄道によるものをLRT=Light Rail Transitと呼ぶ。
このLRT、日本でも25年ほど前から、路面電車のある街を中心に議論になり、いくつかの導入・延伸計画も作られた。しかし、公共交通に利益を求める日本の体質もあり、富山や宇都宮といった数都市を除き、計画は一向に進まない。
私は、この件に関しては、この20数年間ずっとモヤモヤではなくイライラしている。街は郊外へ広がっていく、街の中心地の面白い店や場所がなくなる。同じような街ばかりになる。
LRTというコンセプトが注目され、ドイツをはじめとするLRT先進国への行政の視察は行われるものの、路線延長はこの4半世紀ほとんど変わらない。とにかく、日本では動きが遅い。鉄っちゃんの妄想力だけが、路線図を広げていき、現実が追い付いてくれない。
話をもとに戻す、シアトルのLRTにやる気を感じたことだった。
こちらのLRT、Sound Transitという組織によって運営されている。soundとは英語で湾・入り江のことで、シアトル一帯はPuget Saundに位置している。transitは訳しにくい英語だが、Sound Transitを強引に訳せば「湾岸交通」。
注目すべきはそのSound Transitの母体で、これはピュージェット湾周辺のPierce郡, King郡, Snohomish郡の3つの自治体が共同で運営している。ちなみにシアトルはKing郡に含まれるから、かなり広範囲の交通を担っていることがわかる。
1993年に設立されたこの組織の財源は売上税・固定資産税・自動車税から成り、その用途は地域内の市長17人とワシントン州交通長官の18人からなる委員会によって決められる。
この委員会によって2016年に決定された「第3次計画」を”Sound Transit 3″と呼ぶ。
この計画、鉄心(鉄道好きの心)を刺激し、行政の公共交通に対しての「やる気」を感じさせるのである。
(以下後編へ続く)