きっかけと理由
以前にも書きましたが、私がイタリア語の学習を始めたきっかけは生徒の悔しくて悲しそうな表情を見たことでした。「英語がわからない」ということがそれほどまでに心をかき乱すことであるのなら、私も教師としてその気持ちを味わってみたいと思ったのです。
より難易度の高い英語、例えば難しい文学作品や中英語を学ぶという選択肢もありましたが、どうせやるのなら自分が全く知らない言葉を独学で勉強しようと思いました。
ハングル語、ドイツ語、スペイン語、やってみたい言語はいろいろとありましたが私が選んだのはイタリア語でした。単に「イントネーションが気持ちいい」という理由でそうしました。
大学生の頃ヨーロッパを一人で旅したことがあります。さまざまな言語を耳にしたなかで、イタリア語の音が一番ここちよく感じられました。イタリア語の名詞のほとんどは終わりから第2音節にアクセントがあります。その抑揚が私の心に響いたのです。
始めた当時はイタリアという国にそれほど入れ込んでいたわけではありません。「外国語ががわからない生徒の気持ちがわかればいい」そのような単純な理由で何も考えずにイタリア語の学習を始めてしまいました。
イタリア語ではなくハングル語にしておけば私はこれほど苦しい思いをしなかったかもしれません。ハングル語は文法構造が日本語とよく似ており、どちらの言語も中国語を起源とする単語が多数あります。それに韓国は日本に近く交流も活発なため言葉を利用する機会にも恵まれています。
たらればの話ですが、私がハングル語を学習していたらイタリア語と比較して早く言語を習得していたかもしれません。
しかし、私は独学でイタリア語を始めてしまいました。名詞の性、人称による活用、数多くある時制、接続法、英文法が簡単に思えるほどの複雑さです。ネットが今ほど発達していなかった当時は、オーセンティックな教材を探すのに苦労しました。仕事や子育てで忙しい中イタリアに行く機会も持てませんでした。
一番苦しいこと
いろいろな苦労をしてイタリア語を学ぼうとしましたが、一番の苦しみに比べると可愛いものでした。
私が味わった一番の苦しみは「自分に対して嫌悪感を持つこと」でした。
忙しくて学習時間が確保できない自分。しなければならないと思いつつ集中して学習できない自分。学習の中断と再開を繰り返す自分。習得した事柄をすぐに忘れてしまう自分。伝えたいことがイタリア語で出てこなくてイライラする自分。検定を受けた後、準備不足を責め続ける自分。
イタリア語を学習するだけなのに、さまざまな嫌な自分が出てきて、自分に毒をはき続け、自分を苦しめます。
私はそんな自分と付き合いながらここまで過ごしてきました。
「どうして私はこんなことを続けているのだろう」数限りなくそう感じました。歩いているときは音声を聴き、電車の中ではテキストを読み、家に帰れば「何か勉強をしなくては」と思いつづけてきました。
イタリア語をしなかったら「ダメな自分」もなく、自分に対する嫌悪感を持つこともなかったかもしれません。
反対側にあるもの
無数の中断と再開を繰り返してきましたが、それでも私はこの言語と付き合いを続けてきました。それができたのは苦しみの反対側にあるものも得たからだと思います。いくつか記してみます。
見ている世界
英語を習い始めたころ、動詞に三人称単数形があることが不思議でした。どうして同じ動詞なのに人称によってSがついたりつかなかったりするのだと。
イタリア語を学習するとその理由が見えてきます。イタリア語では現在・過去・未来、どこまでいっても人称による変化がつきまといます。彼らは「誰の行動であるか」ということを基準に世界を切り取っています。英語の三単現のSはその名残りです。
言語が変われば「誰が~をする」という単純な構文であっても見ている世界が異なるのです。異なる言葉を用いるということは、自分の中に異なる自分を持つことに他なりません。
整形をすると見た目の自分が変わります。言葉を学ぶと、物の見方やそれによって引き起こされる感情、つまり自分の中身が変わります。私は英語に加えてイタリア語をすることでこのことを学びました。
ラテン語
外国人講師と英語で話をしていて、彼らが私の話す語彙に驚くことがあります。私は時にネイティブスピーカーが知らないような英単語を使って話します。
自分の英語の語彙を増やすのに役立ったと思うものはイタリア語の存在です。英語はその歴史のなかで数多くの言語から語彙を取り入れてきました。その中で最大のものはフランス語です。
フランス語とイタリア語は兄弟のような言語であり、そのルーツをたどるとラテン語に遡ります。英語の語彙は、学術的なものになればなるほどラテン語またはギリシャ語にルーツを持ちます。
したがってイタリア語を学習することは、英語の学術用語の中に潜むラテン語の匂いをあぶりだしてくれるのです。イタリア語の知識に加え、ギリシャ語ルーツを含む語源の本をいくつか読めば、無機質に見える英単語のアルファベットの並びが漢字熟語に見えてくるのです。
ギリギリバックパッカー
単純接触効果という心の動きがあります。興味がなかった人でも、その人のことを毎日見聞きしたり考えるうちに好きになってしまうことです。私とイタリアの関係もそういうことができます。
イントネーションが好きというだけで始めたイタリア語ですが、やはり学習するうちにその背景にあるイタリアという国に興味を持つようになりました。
ただ、私は今までイタリアについて何も知らなかったし、興味を持った今でも何も知らないに等しい状態です。つまりそれほど長くて深くて多様な歴史や文化を持った国であるということです。
統一されてイタリアという国になってからはそれほど長くはないのですが、地政学上重要な位置にあるイタリアはさまざまな勢力に支配され分断され混ざり合ってきました。多様性の集合体であるこの国の状態を「イタリアらしさ」の一言で表すことはできません。
私はそんなこの国を時間をかけて旅してみたいと思っています。一人バックパックを背負っての旅です。行く先々で人と話し、解説を読みます。もちろんイタリア語でです。そのとき私がこの言語にかけてきた時間と労力が報われると信じています。
ただ、私もいつまでもバックパッカーをできるとは思っていません。だから数年以内に決断します。それは今の仕事を辞めることを意味しています。不安はありますが、人はやらなかったことを後悔する生き物です。
それに不安の裏にはワクワクが隠れています。そんなワクワクを与えてくれたイタリア語に感謝です。
当初の目的
英語教師として「外国語がわからない生徒の気持ち」いやというほど理解できました。当初の目的達成です。そして「言葉がわからない」ということ以上に、「そのことでイライラしている自分」「努力を始められない自分」にたいして腹を立て嫌悪感を持つことを味わいました。
私はそのことをいつも考えながら授業をしています。「これぐらいわかるだろう」を前提にするのではなく「小さな『できる』を積み上げていく」スタイルを考えて授業を組み立てています。
そうするうちに英語以上に大切なものが見えてきました。人間の社会の中にどうして教育というシステムが必要なのか、その問いに対する私の回答も考えられるようになってきました。
私が授業を通じて目指すものは「自己肯定感の向上」です。最終的には語学を習得するという技能的なことを超えてここへ到達するべきだと考えています。なぜそう考えるのかは長い話になるのでこの場では書きません。
しかし、私の教壇での骨格となるこの考えを与えてくれたイタリア語には感謝しています。
長い時間と多大な労力をかけてきたイタリア語に対していろいろなことが脳裏に浮かびます。実施が延期されていたイタリア語検定ですが、先日アナウンスがあり日程が発表されました。
今日から数えて155日後です。私はここで合格を決めて次のステップへ進みます。
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