振り回される

ディスプレーの濃淡

ブックマークからサイトにアクセスしてIDとパスワードを入力すると、私の視野に数字の並びが飛び込んでくる。その数字は見るたびに異なるもので、時には「いつの間に?」と思うほど予想より大きく、またあるときは「嘘だろ!」と思うくらい小さかかったりする。

私に提示される数字の元となっているものは、私が所有している株式や投資信託やETFの時価を足し合わせたものである。これらの価値はは東京やニューヨークで市場が開いている時間絶えず変動している。また外国為替取引には休みがなく、お金の価値はずっと変わり続けている。

そういった理由で、私が証券口座にログインするたびに私の目にする数字は一つとして同じであったことはないのであるが、この私が一喜一憂するこの数字とは何なのか考えてみると不思議な気がする。

私は証券口座の数字の根拠を私の所有する金融商品であると書いたが、そもそも私は何を所有しているのかわからない。

私が初めて自分で購入した個別株は近畿日本鉄道のものである。なんの金融知識も持たず、単に鉄道好きで私鉄では特にこの会社を応援したいため購入した。

購入したといっても特に手元に何かがあるわけではない。コンピューターの画面の購入可能金額の数字が減り、所有株の欄に会社名と時価が表示されるだけだ。近鉄の何を買ったのか実感が湧かない。時折事業の報告書や優待券が送られてくるため自分とこの会社の間には関係があるのだと思う。

以前は紙の株券が存在しその裏側には所有者の名前が書かれていたという。それなら何か価値のあるものを所有している気持ちになるかもしれない。交換性の悪い現金を持っている感じであろうか。

紙の株券は消え、投資信託やETFも目に見えるかたちのものは存在しない。そんなものに私たちは価値を感じて、その価格を気にしながら売り買いしている。その結果私たちは何かを所有していたり、所有物を手放したりしていることになる。

物理的に見ると、私たちの持っているものは電子的な信号であったり磁気の強弱である。その所有物の総額を表す数字はディスプレイの濃淡に過ぎない。

私は一体何を持っているのだろうか。少なくとも証券口座を通じて購入したものには重さがない。重さがないものでもパソコンの操作によってそれは実際の食べ物や着るものになったりする。

実態のないものに価値があると思う人が、何もないものをそれらと交換してくれる。そして世の中のほとんどの人々は、私を含めて実態のないものに価値があると信じている人々だ。私たちは幻想の世界をリアルに生きている。

手触り

アメリカの大統領の発言に世界が振り回されている。株価や為替が乱高下している。株価の大幅な下落がニュースになると「今日は何兆円の資産が消えた」などの報道を目にする。

目の前の札束に火がついて灰になれば資産を失ったということを実感することができる。しかし実際に起こっているのはサーバーを中心としたネットワークの中を電流が複雑に走り回り、記憶媒体の磁気や電流の位置が変化しているだけだ。

大統領の発言で形のないものが何兆円も消えたり、また復活したりしている。そんなものによって人々の心や行動も変化し続けている。

私にはよくわからない世界であるが、株式や為替で高いレバレッジをかけた取引をした人の中には、この変動で実際に命を落とした人もいることだろう。何にもないところに価値を見出し、そんなものに振り回されて一番大切な命を失う人もいる。

世界に80億人の人間がいてこの社会を構成している。その中のほんの一握りの人々、見た目には一人の人間の思いつきや言動で何十億人もの人々が恐怖や絶望を味わう反面、狂喜する人間も作り出す。

数十億の人間が見えないものに振り回されている。そう考えると私たちはものすごく不安定で不健全な世界に生きている。

もうかなりの間証券口座にログインしていない。設定により定期的な投資信託の積立は行なっているが、個別株はしばらくの間購入していない。

ここ数ヶ月のアメリカを中心とする世界の動きを見ていると、金融商品に対して気持ちが萎えてくるのを感じる。持っている株の価値が下がったとかそういう話ではない。私たちがこのような実態のないものにぶら下がって一喜一憂することに虚無感を感じるのだ。

とはいっても私たちは完全に金融の世界から離れることはできない。実態のある紙幣や貴金属も電子化された株式やお金と本質は同じである。生活に直接役立つものに価値をつけるのではなく、人々が共通して「価値があるはず」と思い込もうとしているものに価値が生まれるのである。

紙幣もそのままでは燃やして暖を取ったり鼻をかむ程度の価値しかない。貴金属も固められたままでは生活の役に立つことは少ない。

考えてみると人間は本当におかしな世界に生きている。私たちは価値のないものを”価値がある”を信じ込むことで現代のような豊かな生活を手にいれることができた。しかし、その価値は幻だけあって脆く崩れやすい。

こんなふうに考えると、実際に手触りがあり生きていくために役立つものが愛おしく思えてくる。その最たるものは食べ物である。

お米や野菜を育てて、収穫し、調理して、胃の中に落とし込む。それが一日生き延びる栄養となる。ものすごく理にかなうというか、わかりやすいというか、余計なことを考えなくても安心できる。

アメリカ大統領の発言に世界中が振り回され始めてから、私は自分で食べ物を作って暮らす生活をしたくてたまらない。しかし、農作物も、特に保存の効く穀物は作りすぎると金融商品と同じような性質を持ってしまうので気をつけなくてはならない。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。