三浪の末
イタリア語検定2級の合格通知が来た。発表予定日の5月19日、検定のホームページからマイページにアクセスすると、そこには確かに「合格」の文字があった。2次試験の点数も充分にとれていた。
「長かった」と、フッと息をつく。同時に私の中にあるテレビ番組のシーンが浮かび上がってきた。10年ぐらい前から、次男がはまって繰り返し見ている「SASUKE」である。
それは、筋力、体力、運動神経が自慢の100人の参加者が、巨大なアスレチックステージを舞台に、どこまで進むことができるのか競い合うイベントである。
20年以上続くSASUKEの人気はすさまじく、海外でも広く放送され、その国独自のスタイルと取り入れている場所もある。さらに、2028年のオリンピックでは正式種目として採用されるという。
次男につられて私も時々SASUKEを見るのだが、その競技の難しさは想像を絶するものがある。全部で約20ある障害物のどれ一つとっても私はクリアすることができないと断言できる。
SASUKEの障害物は3つのステージに分かれて配置されている。サードステージをクリアするとファイナルステージ、とんでもない高さの櫓から吊るされたロープを腕の力のみで登っていく。しかも制限時間内に。
ほとんどの人はファーストステージで脱落していく。最初の2〜3個の障害物でリタイアする人も多い。ファーストステージの制限時間は、開催回によって変わるが長くて2分である。
出場選手はその2分のために1年をかけて練習する。SASUKEにやり直しはない。最初の障害物で脱落すれば1年の苦労が5秒で終わる。
イタリア語検定2級の合格通知を見ながら、私はそのようなSASUKEのアスリートたちの姿を思い浮かべた。
今どこ
私は思う。「今、私はSASUKEに例えるとどこにいるのだろう?」
2級を受験したのは4度目だ。イタリア語検定2級もSASUKEと同様に1年に一度のチャンス。落ちればまた来年である。
2級の前には準2級を三度受験し、3級と4級を一度ずつ受けている。時間はかかったが一つ一つステージをクリアしてきた。そして今回の2級合格である。イタリア語学習を始める前の私からすると、これでファイナルステージクリアだ。
「英語が分からない生徒の気持ちを理解してみよう」
高校で英語を教え始めて間もない頃、そんな気持ちでイタリア語学習を始めた。目標はすぐに決まった。2級合格である。理由は級のレベルの説明に「4年生大学のイタリア語専門課程卒業程度の学力を標準とする」と書かれていたからだ。
高校の同じクラスに国立の外国語大学に進学した友人が3人いた。いずれも私より遥かに勉強ができた。「それらの友達が習得する内容を独学でできたらすごい」と私は思った。
実際にそれは「すごいこと」であった。仕事をしながらの語学学習は困難であった。疲れた体に鞭打ってテキストを開いては寝落ちを繰り返した。私は何度もイタリア語学習を放り投げて、同じ数だけ再開した。
人称による動詞の活用、名詞の性、複雑な時制、英語に存在しない接続法という概念、私は英語の分からない生徒の気持ちが嫌というほどわかった。自分が惨めになるくらいイタリア語がうまくならなかった。
それでも継続は力なりという。20年以上付き合っていると、体の一部というのか、ある程度のことは感覚でわかるようになってきた。NHKラジオ講座応用編のテキストを見て「こんなんが理解できる日が来るんか?」と思っていたが、今では物足りなく感じるようになった。
欠乏感
イタリア語を始めた頃の私からすると、私は今信じられない場所にいる。SASUKEでいえばファイナルステージのロープを上り時計を止めるボタンを押したところである。あとは喜びの美酒に浸ればよい。それが私がずっと夢見てきたこと。
しかし、私の中にまた欠乏感がやってきた。英検1級に合格した後感じたのと同じような感覚だ。登る前はとてつもなく高い山に感じる。そこからの景色は息をのむほど美しいだろうと期待しながら足を進める。
頂に立つと確かに景色はよい。英字新聞を読むのも楽しいし、会話をしていてネイティブスピーカーが知らない単語が飛ぶ出すこともある。
しかし、相変わらず英語でフィクションを読むのは苦手であるし、作文をすれば冠詞の使い方に自信がないままだ。
良い景色を眺めながら、その向こうにもっと素晴らしい展望が期待できそうな山の頂が見えるのだ。そうなると、今自分がいる場所がつまらなくなる。
電車の中でイタリア語で書かれたエッセイを音声を聴きながら読む。読むスピードの速さに言語処理のスピードがついていかない。英語なら「ビジネス英語」を聞きながらシャドーシングして意味も取れる。でもこちらは音を発するだけで意味が頭に入ってこない。
私は欠乏感を感じる。「イタリア語2級でもこんなものか」。自分が長年苦しみながらも憧れ続けた場所で、私は今物足りなさを感じ始めている。
あらためて今私はSASUKEのどのステージにいるのか考えてみる。明らかにファイナルステージのロープをよじ登った感覚ではない。ではサードステージ?、セカンドステージ?、それともまだファーストステージに過ぎないのか。
いったいどこを目指して私はイタリア語学習を行ってきたのだろうか。「英語の分からない生徒の気持ちを知る」ならもう十分達成した。「大学の専門課程卒業程度の2級取得」も、もうこの手の中にある。
学習を続けるうちに最初の目標が変わっていく。今はただもっとこの言葉を理解し使えるようになりたい。この言葉で少しはものが考えられるようになりたい。
「イタリア語検定1級」という言葉が浮かぶが、すぐに消そうとする。1級がファイナルステージだとすると、私のいる場所はファーストステージのゴールに過ぎない。
50を超え、知力と体力のどちらも衰えつつある私が、今からファイナルステージを目指すのはどれだけ大変なことなのか容易に想像できる。しかも、仮にそこへ到達できたとしてもこの欠乏感が消える保証はない。
私は根本的に考え方を変えるべきなのかもしれない。良いことがあったのだから素直に喜べばいいと思うのだが、これも私の性格であり、これからもそれと付き合っていかなくてはならない。
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