客が店の都合に気を遣う楽しさ

お客様は神様ですは誰の言葉?

職場から徒歩2分の場所にコンビニがあります。時々、お弁当やコーヒーを買いに行きます。住宅街に隣接するため、小学生の姿をよく目にします。おやつを買いに来る彼らに向かって店員さんは、大人に対して行うのと同じ応対をします。

カウンターにガムを置けば「お印でよろしいでしょうか?」、お金を渡せば「~円からお預かりします」、お釣りを渡して「どうもありがとうございました」。

これに違和感を感じる私の方がおかしいのでしょうか。こういう光景を見ると、私の心にまたモヤモヤがやってきます。「シール貼っとくな」「はいお釣り、ありがとう、気いつけて帰りや」ではだめなのでしょうね。

おそらくコンビニの接客マニュアルは、相手によって対応を変えてはならないことになっているのでしょう。客の見た目、雰囲気、言葉遣いによって店員の対応を変えていては、バイトの店員にとって大変すぎて割に合わないし、何かトラブルの起こる原因となる、私の勝手な推測ですが、マニュアル作成者はそう考えるのかもしれません。

私は、この一連の接客、コンビニ店員と言うより、子供たちに同情します。彼らは、普段大人からされない言葉遣いをここでは受けます。その理由は、彼らがお金を持った消費者で、店員はそのお金を受け取る側だからです。大人と子供という関係性より、お金を払う受け取るという関係性の方が上であるということになります。可哀そうな子供たちは、ゆがんだ形の社会関係=金の全能性を刷り込まれて行きます。

「お客様は神様です」という言葉があります。本来、この言葉は販売者が、わざわざ足を運んで商品を購入してくれる消費者へ向けた感謝の言葉であったと思います。

しかし、昨今では「客の方が偉いんや」という、消費者ファーストの文脈で客の方から発せられる言葉になってきていると思います。対応が悪いと、他の客の前でわめき散らすクレーマー、現在では珍しい存在ではありません。彼らは、彼らの主張する正しさのために周りの人がどんな不快な思いをしているのかに想像力が至りません。ここでも、私と公との関係が、お金を払う受け取るという関係に負けています。

平らになる世界

ある意味、このことは仕方のないことなのかもしれません。

商店に個性がなくなりました。同じような店ばかりになりました。日本全体の小売店の形が、どんどんと平らになっているように感じます。

タバコ屋と酒屋と駄菓子屋と雑貨屋がなくなり、コンビニだらけになりました。

肉屋と魚屋と八百屋と総菜屋がなくなり、スーパーだらけになりました。

そのコンビニやスーパーも全国的な規模で資本提携や統合が進んでいます。個性とポリシーが異なる無数の店が、同じサービスであることを売りにする1つの大きな塊になろうとしています。勝負する断面が無数にあり、同一の度量衡で比較することが不可能だったものが、単一のチェーンとなってしまえば、その店舗の唯一無二性が失われます。

結局、ものごとを考える基準がユニバーサルな物差しであるお金に行きつき、その力学が消費者の立場を押し上げて行きます。

社会が安定した状態なら、売り手と買い手は対等な関係であるべきだと思うのですが、今はそうはなっていないようです。

ほっとする店

こんなことでモヤモヤする時、私は上に述べたのと正反対の店のことを考えます。正反対と言っても売る側が威張っているという意味ではありません。客が店に対して気配りをすることが楽しい店のことです。

大学生の頃、香川県によくうどんを食べに行っていました。丁度、今は無き「TJかがわ」というタウン情報誌に「ゲリラうどん通ごっこ」が連載されていて、讃岐うどんブームが起ころうかという時期でした。記事の内容と分かりにくい地図を参考に宝探しのようにしてレアなうどん屋を探します。

”レアな”という表現を使ったのは、香川県の人以外にとってあまりなじみのない形態の店舗だからです。山奥のパッと見普通の民家に見える家が、実は米屋でそこがうどんを出していたり、農家の納屋のようなところが実は製麺所で、ゆでたてのうどんを一玉65円で食べさせてくれたりしていました。

讃岐うどんファンなら分かると思いますが、前者は「谷川米穀店」で後者は移転する前の「池上製麺所」です。どちらも、今は休日ともなると全国から人が押し寄せる超有名店となっています。

しかし「TJかがわ」に紹介された頃は、まだ地域の中に溶け込んだ地味な店でした。この2件のような店は香川にはたくさんありました。どこも、信じられないような値段で、とんでもなく美味しいうどんを食べさせてくれました。

客と店との関係は対等です、が、客は店のことに気を配りながらうどんを食べます。まるで日常生活でご近所さんに、近すぎず遠すぎず、気を配りながら付き合うように。

丼や箸を自分で片付けるのは当然ですが、混み始めたら座る場所を代わったり、薬味が少なくなってきたら取る量を考えたり、自分で机拭いて調味料を整頓したり。なるべく店の人が忙しくなり過ぎないように、客が店のためにできることは自分でしていて、その空間がとても居心地よかったと思います。

私のよく行く立ち飲みでもそうです。店舗での売値で美味しい酒を飲ませてくれるお店に対して、客の方から気を使って動きます。

混んできたら自主的に場所を変えたり、早めに切り上げて一人でも多くのお客さんが楽しめるようにします。店主が配達に出かけるときは、足の悪いお母さんをなるべく動かさないように食べ物の注文は控えます。タバコを店内で吸うことはできますが、常連客は喫煙者であっても他の客のために吸うのを控えます。

客の方が少しずつ、店やほかの客のことを考えて、それを小さな行動に移し、気がつけばとても心地よい空間が出来上がっています。

これらの店にあるのは、お金を払う側と受け取る側、つまり販売者と消費者である前に、人と人が空間を共有する際に必要な謙虚さと思いやりです。お店の方は商品やサービスを買っていただいていると思い、客の方は店のおかげで気持ちよくお金を払うことができると思える関係。どちらも行きすぎず、控えめですが、その距離感がとても気持ちいいです。

お金を払う方も、受け取る方も、そしてその光景を見ている方も、誰もが気持ちいい店が増える度、世の中のモヤモヤも私のそれも1つずつ減っていくのに、そんなことを考えました。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。