虚しさを感じる贅沢

実家に帰ると

一月ぶりに実家に帰省することにした。田んぼの畦の草刈りのためである。車庫に車を停めて母屋へ行こうとすると見慣れない光景が目に入った。

長さ5〜6メートルはある鉄パイプが玄関前の地面から屋根に向かって垂直に立てかけられているのだ。その長いパイプの先には、直径10センチ高さ30センチほどの砲弾状の白い物質が付けられている。素材は発泡スチロールのようだ。

初めてのことなので何が起こったのかよくわからない。子供の頃、屋根に引っ掛かったボールを取るために長い竹の棒を使ったことを思い出した。今の私の実家にはボール遊びをする人間などいない。

家に入ると父親がいたので何が起こったのかを聞く。

「ああ、あれはなあ、スズメバチが出てなあ。ちょっと来てみろ」

父親は私を連れて家の外に出る。大屋根の庇の下、父親が指差す方をみると10匹ほどの虫が飛んでいるのが見える。一番奥の部分に視点が合うと、その虫はスズメバチでそこに拳大の巣を作っているのがわかった。

父親の説明によると1週間ほど前に大屋根の庇の下にキイロスズメバチの巣を発見し、彼は、私が最初に見た砲弾状の先端が取り付けられた棒で突いてそれを壊したという。

よく見ると1階の屋根の上、さらに私の足元にも茶色が層をなすスズメバチの巣の破片が見える。ところどころには砲弾の先端で押し潰されたであろうスズメバチの死骸もある。

「もうあんなに大きくなったか」

そう言うと父親は例の棒を手に持った。

「危ない」

私が言っても父親は聞かない。

「ここまでは来ない」

そう言って棒の先端の白い砲弾部で蜂の巣を一突き、そしてもう一突き。

砕けた巣がバラバラッという音を立てて1階の屋根から私の足元へと落ちてくる。壊された巣の周りでは怒り狂ったスズメバチがブンブン音を立てているが、不思議と巣を壊した私たちの元へはやってこない。

父親と二人でしばらく巣があった場所を観察する。バラバラになっていた蜂の一部が集まり始めている。父親はそれを見て「あきらめてないなあ。またやらないかん」と言っている。

存在し続けるために

私はには時々無性に見たくなるYouTubeチャンネルがある。それは「おーちゃんねる」といい私はスズメバチの生態の多くをそこから学んだ。

あの巨大なスズメバチの巣は、1匹の女王蜂から始まる。女王蜂が生まれるのは前年の秋で、そのお腹には雄蜂からもらった精嚢を抱えている。

女王蜂は朽木の隙間などで冬を越し、やがて暖かくなると巣作りを始める。木をかじって唾液で固め小さな巣を作りそこに精嚢の精子を使って受精させた卵を産む。

しばらくして生まれてくるのは全て雌バチで、彼女らは働きバチとして自分の母親である女王蜂の世話をする。巣を拡大し、産卵スペースを作り、そこに卵を産ませて、卵が幼虫になれば狩りをしてきた昆虫を肉団子にして与える。

夏から秋にかけてこの営みが繰り返され、1匹の女王蜂から始まったコロニーは数百匹の母親と娘たちからなる集団になる。

スズメバチと言えばその凶暴さと時に死にいたる毒で知られているが、その毒を差し込む針は産卵管が進化したものであり、従って恐ろしいのは全て雌バチである。そしてほとんどの期間巣の周りを飛んでいるのは雌バチであるが、秋のほんの一時期だけ巣から雄バチが誕生する。

ハリを持たなく狩もしない雄バチが生まれる理由は子孫を残すためであり、女王が死ぬ頃に孵化する新女王を目掛けて雄蜂は飛び立ち、その中の幸運な1匹だけが精嚢を新女王にわたして短い命を終える。

雄バチたちは生まれてすぐに死に、女王蜂も死に、その世話をしていた雌バチも死に、冬を越すことができるのは新たに生まれて交尾できた新女王蜂だけになる。

「ああ、なんていう生態なんだ」と私はため息をつく。立てても無駄な問いを私は立てずにはいられない。それは「何のためにスズメバチは生きているのだろう」。

春夏秋冬を一つの区切りとして一年を考える。あれやこれやと活動して女王蜂が残すことができたのは、いくらかの新女王蜂だけである。

数百匹の同族の屍、またそれらが捕食したその数十倍数百倍の昆虫たちの上に残っているのは、たったこれだけなのだ。

スズメバチたちは巣を作り、狩をして、仲間を増やす。最後に新女王を送り出すために。そしてそのサイクルを永遠に繰り返す。存在し続けるためだけに、活動を続けている。

虚しさの反対にあるもの

足元に落ちた巣の破片を手に取り、よく見てみる。どうしてこんなものを作ることができるのかわからない。同じ規格で並んだ六角形の構造。それらが何層にもなり、外壁に覆われている。

それらは1匹の巨大な生物の手によって作られたわけではなく、数百匹の小さな集団によって形成されたものである。それぞれがそれぞれの場所でそれぞれの仕事をしながら、巨大で精密な構造を作り上げる。指示を出す現場監督がいるわけではない。こんな小さな頭のどこに、そのような設計図が入っているのかと不思議な気分になる。

そんな蜂たちの努力の結晶を、私の父親がひと突きで破壊する。生き残った蜂たちは、訳がわからないまままた木をかじり、唾液で固めて巣を作り出す。数日後に、新たなひと突きがやってきた。

残ったスズメバチたちは、また最初から巣を作り始めるだろう。新しい女王蜂を来年に送り出すために。これからもずっと同じサイクルを繰り返すために。

「何のために」という問いを私は立てる。だから私は虚しさに襲われる。私の人生をハチに例えようとする、だから結局「何もできずに死んでいく」という思いに至る。

ハチだけではない。ほとんど全ての動物の活動は、人間である私の目から見ると虚しく思えてくる。生まれて、ただ生きて、簡単に死んでいく。

ほとんどの個体は餌として食べられ、幸運な一部ができることとは子孫を残すことである。ただそれだけである。その残った子孫も親たちの世代と同じことを繰り返す。

そう考えると、虫たちの一生に人間を重ね合わせて虚しさを感じている、私の人間としての存在のありがたさが浮かび上がってくる。

私は今週、妻と一緒に近鉄特急に乗って名古屋へ行った。そこで美味しいものを飲み食いし、一泊して翌日は相撲を見て新幹線で神戸に帰った。「次は九州場所に行くか」そんな話をしながらだ。

心から楽しいと思える二日間であった。私はそのような楽しい思いを今までいろいろと味わってきたし、これから先にも数多くの計画を持っている。

「何のために生きているのか」と問いを立てて虚しさを感じることができるのは人間だけである。そして、その虚しさの反対側には「人間だけが何かのために生きることができる」という光が浮かび上がってくる。

私は子孫を残し今も生き続けている。だからあとは余剰を楽しめばいい。相撲でも、旅でも、語学でも、酒でも、または他人の幸せのためでも、「〜のために生きる」をたくさん立てて毎日を過ごしていけばよいではないか。

かわいそうなスズメバチを見ながら私はそう感じた。

投稿者: 大和イタチ

兵庫県在住。不惑を過ぎたおやじです。仕事、家庭、その他あらゆることに恵まれていると思いますが、いつも目の前にモヤモヤがかかり、心からの幸せを実感できません。書くことで心を整理し、分相応の幸福感を得るためにブログを始めました。