スポーツって何なのだろう?
ボールを手にした選手たちが前に進むたびに、テレビの前で大声を上げて興奮しています。妻や子供たちは「びっくりさせないでよ」という目で私の方を見ます。
今までラグビーの試合を定期的に見てきたわけではありませんが、「めったにないことなのだから」と言う気持ちでワールドカップを見始めて、1試合ごとにテンションの上がっている自分に気がつきます。
ロシア、アイルランド、サモア、スコットランドと、素晴らしい試合を見せてくれた日本チームはベスト8に進み、そこで南アフリカに敗れました。私がこんなに興奮しながらスポーツを観戦したのは久しぶりのことでした。1試合ごとに、そして1つのプレーごとに「次は何が起こるのだろう」そう期待しながら、ゲームの展開を楽しむことができました。
それと同時に、とても不思議な気持ちになりました。
試合にのめりこんでいる自分、その姿を「この人は何を見てこんなに興奮しているのだろう」という風に、少し離れたところから観察するもう一つの視点に気がついたからです。
興奮した私が見ているものは、テレビの中のラガーマンたちのボールをめぐっての動きです。
彼らは、ボールを奪い、走り、隙間を見つけて突っ込んでいきます。倒されたらボールを後ろに出し、後ろの味方がボールを受け取りパスを出し、隙間にまた突っ込む。対戦相手はボールを持った人につかみかかり、倒し、隙間を塞ぎ、ボールを奪おうとし…。
ごっつい体の大人たちが15人づつ、それぞれ無理やり相手の陣地の端までボールを運んで突っ込もうとするゲームです。ある時間が来れば、ノーサイド、敵味方の陣地もなくなり、あれほど激しく掴みかかっていた相手と握手をしてたりします。
人間って面白いことをするな、そう感じます。人間以外のどの動物が見ても不可解な行動をしていることでしょう。
ボールを奪い、そしてそれを自分陣地に持ち帰って独占する。この行動は、ボールを餌に置き換えると他の動物でも見られるものだと思います。
しかし、ラグビーはボールを無理やり相手の陣地に持ち込み、そこに置いてくるのです。いわば強制的なボールの受け渡し、無理やりのプレゼントのようなもの。
考えてみれば、ラグビーだけではありません。サッカー、バスケット、バレー、テニスなど、球技はどれも同じような動きをしています。
勝つために行うことは、一見価値のありそうなものを相手側に渡してしまうこと。しかも、相手が途中でこちらに送り返せないぐらい強力な手段を用いて。そして、ボールを持ち続けたほうが負けになるゲームであり、一刻も早く、ボールを相手側に送ってしまう、その速さを競うゲームでもあります。
面白いのは、ボールを闇雲に相手側に渡してしまいさえすればよいのかというと、そうではありません。決まった手順を踏んで渡さないと、渡す側に良い結果をもたらしません。
例えばバレーやテニスなら、相手の全く手の届かないところにボールを与えてしまっても(アウト)それは渡す側のためにはなりません。サッカーやバスケも同じで、相手側の決まった場所に渡してあげないとだめです。
ラグビーを見ていて、スポーツっていったい何なのだろう、いつ誰がこんなことを始めたのだろう、とおかしな気分になりました。
ボールに価値はあるの?
以上に書いたような球技では、ボールに価値があるように見えます。何をいまさらと思われるかもしれませんね。
球技を行っている選手に「ボールは大切なものですか」という問いを行って「はい」と答えない人はいないでしょう。愚問です。選手たちは、練習や競技中以外でもボールを大切にし、特に日本人なんかはそれに魂が宿っていると考える人も多いでしょう。練習でも、そのボールをいかに効率よく奪って、それを自分の自由にするのか、または相手に自由にさせないのかということが中心的な課題です。
そのような大切なボールは、競技の形式の一番最後のところでその重要さを失います。私の球技のとらえ方が間違っているのかもしれませんが、ここが一番不思議で醍醐味がある部分だと思います。
すなわち、その大切なものを敵陣に無理やり置き、そのあとは知らない、という態度を示すことです。
サッカーなら、大切に運んだボールを相手のゴール内に与えた瞬間、そのボールから気持ちも体も離れます。
ラグビーも似たようなものです。ボールを相手側に置こうとする。相手は必死になってそれを阻止する。トライの瞬間、置いた相手はボールへの執着を無くし、置かれた相手はボールを自陣から早く出そうとする。置いた方は、出されたボールをキックでもう一度相手側に送り返す。
本当にボールは価値を持っているのでしょうか。
無理やりにでも相手に押し付けてしまいたいようなもの、そんな風に見えないことも無いです。
小学生の頃、誰かが汚いものに触れると(虫とか動物の死骸とか)そこから「~菌」をつけあう遊びがありました。触れた人を見た誰かが「あっ、きたねー!~菌が付いた!」と言うと、そこから鬼ごっこが始まります。菌の保持者は誰かをタッチすれば、その菌から解放され、”きれいな体”になります。
実際に細菌やウイルスに感染すれば、人に移したからといって感染が広がりはすれども、無菌になるわけありません。しかし、このゲームを行う時、頭の中ではすべて虚構であるとわかっていても、体は菌を移されることを拒否していましたし、菌を持ったまま他人に触れれば自分が浄化されるような気持になりました。
球技のボールってこれに似ているのかもしれません。ある種の呪い、不吉なものの象徴。できるだけ早く、自分の領域から持ち出して敵に受け渡さなくてはならないもの。ただ敵の陣地で渡せばよいわけではなく、敵がそのやり取りを一時的であれ、あきらめてしまうぐらいの手段を用いなくてはなりません。
反対の形のスポーツはあるのか?
相手側に無理やりボールを渡してしまう、言わゆる普通のゲームと反対の動きをするスポーツは無いのでしょうか。価値あるものを奪い、それを自分の陣地で守っていくような形のスポーツです。
オリンピックから運動会まで頭の中でいろいろ想像をめぐらせます。しかし、これが驚くほど出てきません。かろうじて浮かんだのが「綱引き」と「玉入れ」。綱引きは球技ではありませんが、綱を価値があるもの考えればそれを自陣に奪い合うゲームと言えなくはありません。玉入れは、価値のあるもの=玉を多く奪った方が勝ちです。
野球やクリケットは微妙です。瞬時に攻守が入れ替わることがありませんし、敵味方の陣地がありません。攻撃側は玉を遠ざけようとしてますし、守備側は玉を欲しがっています。しかし、点が入るのは玉を遠ざけた時と考えると、野球やクリケットもまた相手にボールを与えるゲームと言えるでしょう。
何かを奪って自陣に囲い込むゲームと、敵陣に無理やり何かを与えるゲーム。圧倒的に面白いのは後者です。綱引きや玉入れが個人的なレベルでどんなに面白いとしても、世界中でTV中継されるわけではありません。
様々な巧みな動きを持って相手に何かを渡していく、この過程での戦略が見るものを魅了していきます。
このことは大切な人へプレゼントを与える行為に似ているのかもしれません。自分用の物を買う時より、大切な相手に贈り物をする時は数倍悩みます。使う労力もけた違いです。しかも、その苦労して選んだ贈り物も、心の底から気に入られるかどうかわかりません。贈り物は送り方によって、祝福にもなれば呪いにもなります。
例えば、人は不相応なものを不相応な人から送られたとき、それがどんなに高価で価値があるものであっても不安を感じるものです。逆に相応な人からは同じものを受け取っても、祝福された気分になります。
物自体に価値があるわけではなく、それを扱う人と周りとの関係によって価値が規定されていく。同じものが時には祝福となり、時には呪いとなる。そう考えると球技におけるボールも大切なものであると同時に、一刻も早く自陣から追い出すべき忌まわしきものと言えるかもしれません。
ワールドカップを見ながらいろいろと想像してみました。