NHK教育
独身の頃、自分がこのような番組を真剣になって見るとは想像すらできなかった。人生は予想しなかったことにはまり込むから面白い。
結婚して長男が生まれ彼が言葉を話し始める頃、私はNHK教育テレビの「お母さんといっしょ」を一緒に見始めた。その頃は妻が7時前に出勤し、定時制高校に勤務していた私が長男に朝食を食べさせて保育園に連れて行った。その間、一緒にこの番組を見るのだ。
幼児向けの番組だけあって、気持ちがマイナスになることがない。私は一緒に歌を口ずさんで、体を動かして楽しんだ。普段はハードロック・ヘヴィーメタルばかり聴いていた私であるが、息子たちが小さな間はこの番組の選曲集を一番聴いた。
この番組は主に歌と体操で構成されている。通常の話し方とは異なり音階に載せて言葉を発することで、子供たちは世の中に特別な世界、物語があることを知る。歌いながら体を動かすことで、言葉と体と心が結びついていることを体感する。
そんな番組で子供たちの見本となって歌を歌い体を動かすお兄さんやお姉さんたちは、子供たちにとって特別な大人である。そして私が毎日見ていた頃、歌はゆうぞうお兄いさんとしょうこお姉さん、体操はひろみちお兄いさんときよこお姉さんが担当していた。
その後次男が生まれ妻は仕事を辞めて家にいることになった。私は昼間の高校に転勤し、以来「お母さんといっしょ」を見ることも無くなった。だから私の中でこの番組のメンバーはこの四人であり(後半で体操の二人は変わったが印象で言えば圧倒的に前の二人)、今でもメディアに名前が出ると思わず目がいく。
5年前、ゆうぞうお兄さんこと今井ゆうぞうさんの訃報を目にして絶句した。生を受けた限りその終わりが来るのは当たり前のことであるが、改めて「人って死んでしまうんだ」と思った。
生まれて間もない未来ある幼児たち、その中心で歌を歌っていた若者がこの世から消えてしまうことがうまく想像できなかった。
もちろん、私の中にあるゆうぞう兄さんのイメージは訃報を聞いた時から15年前、彼が20代の頃から変わっていない。しかし、私には長男の手を引いて保育園に連れて行った掌の温かい感触がはっきりと残っている。私にとってそれはついこの間の出来事なのだ。
「お母さんといっしょ」を通しで見ることはもう15年以上ない。それでも普段テレビのチャンネルを変えていると、時々画面に現れることがある。
そこには私の知らないお兄さんやお姉さんが映っている。「ゆうぞう兄さんはこの番組だけではなく、もうこの世にいないんだ」と、その度に世の無常に胸が貫かれる。
人生を賭けて
年を重ねると、このように直接自分には関係なくてもその不在が喪失感をもたらす人を持つ。そして、その数は年々増えていく。今回はもう一人だけ書き留めておきたい。
「嘘だろー!そんなの無理だ」
書店の棚を見ていて私はつぶやいた。すぐ私はその本を手にとってレジへと向かった。もう20年以上前のことである。その本のタイトルは「乗った降りたJR四千六百駅」、著者は「横見浩彦」という人物であった。
若き日の私の憧れであったレイルウェイライターの種村直樹。鉄道の旅を文学に高めた作家の宮脇俊三。彼らは国鉄全線制覇の経験をその筆で描き、多くの鉄道ファンに影響を与えた。
国鉄がJRになっても全線制覇を目標とする鉄道好きは多いことであろう。しかし、タイトルにあるように「乗った降りた」となると難易度がはるかに異なる。
私は本を紐解いた。そこには私の想像を超える世界が書かれていた。横見浩彦は鉄道に乗ることだけを目標に生きてきたのだ。
大学卒業後、彼は定職に就く道を選ばなかった。その代わりバイトをしてはそのお金で鉄道に乗ることを繰り返した。そしてその途中でJR全ての駅に下車することを思いつきそれを実践していく。
無人駅で寝て、食事代を削り、浮いたお金で旅を続けた。たどり着いた駅のその先に旅の目的地はない。なぜなら、彼にとって駅こそが目的地であり、それ以外には興味を示さないからだ。そんな駅が日本には一万近くある。
1995年にJR全駅を達成すると、彼の次の目標は私鉄や第三セクターを含めた日本の全ての駅となった。そしてその偉業も2005年に達成する。相変わらず定職につかずバイトをしながらではあるが、この間に彼は鉄道好きの間で有名になり漫画のモデルになった。私もメディア出演する彼の姿を何度か目にした。
私には絶対に真似できない生き方であるが、思うままに鉄道で旅する彼の姿が羨ましくないかと言えば嘘になる。
今年の1月、新聞で彼の逝去を知った。家のものを減らす中、彼の本や漫画は全てブックオフに売った。彼の名前を目にする機会は減っていた。彼は63歳になっていた。
今年も私は何度か旅をして幾つかの駅で下車した。初めて降りる駅でふと頭をよぎることがある。
「この駅にも横見さんは来たんだ。このホームを歩き、この改札を通ったんだ」
横見さんが下車していない駅は日本にない。しかし、この先新たな鉄道が開通した時、その駅に横見さんが立つことはない。
そのことを想像する時、私は大きな喪失感に襲われる。
あたり前のようにあったものが消えてしまう。ゆうぞう兄さんも横見さんも、目に見えるものとして残っているのは骨壷の中の骨だけだろう。
あの美しい歌声を出していた体、一日中列車に揺られていた体、それらはどこへ行ってしまったのだろう。そして、それらと一体であった心も。
生まれる前と死後、その無限の長さを考えた時、この世に存在できたということの有り難さと不思議さが浮かび上がってくる。