命日
12月も半ばを過ぎた。こうなれば新年まで一瞬で過ぎていく。私の職業は毎年12月28日が仕事納めになる。この日が来ると私はある男の存在を思い出す。彼は今この世にいない。2015年12月28日、モーターヘッドのボーカルでベーシスト、レミー・キルミスターが70歳でこの世を去った。
あれから10年が矢の如く過ぎ去った。レミーの訃報を知る数日前、私は彼の体が癌に侵されているニュースを目にしていた。「レミー・キルミスター」でネットを検索すると、そのような驚くべきニュースが目に入ってきたのだ。レミーが亡くなったのは、病気を公表してわずか2日後のことであった。
当時の私は数週間に一度、彼の名前を検索せざるを得ない状態であった。気持ちが落ち込んでしょうがない時、私はパソコンに向かい彼に救いを求めようとした。彼の名言や伝説的な行動を読んだり、動画を見たり。レミーに触れると元気が出てきた。
私がこのブログを書き始めたのは2019年の6月である。今思うと、当時の私はかなり危ない状態であった。気持ちを文章にして外に出さないとどうにかなってしまいそうであった。
しかし、レミーが亡くなった2015年あたりもそれ以上にひどい状態であった。とにかく自己肯定感が低い。自分に自信を持つことができない。だから、何をやってもうまくいかなかった。
生徒とうまく人間関係を築くことができない。自分でも面白くないと思いながらつまらない授業をする。部活で嫌な思いをする。保護者に文句を言われる。私が憧れていた教師像とは正反対の自分の姿であった。
当時はマイナスの言葉をよく口にしていた。「最悪」という言葉が口癖であった。些細なことで腹を立て、「もうダメだ」と口にした。
毎週のように宝くじを買っていた。ロトという数字を選ぶやつだ。「これが当たればもう働かなくてもいい」そんなことを考えながらお金をドブに捨てていた。
ある仕事帰りの夜、電車の窓に死神のような表情をした男の姿を見た。それが自分だと気づいた時、私は声をあげて泣きたい気分になった。
ぶれない芯
私はレミーの何に惹かれるのだろうか。もちろん彼の曲も好きでよく聴きはするが、私はモーターヘッドが一番好きなバンドというわけではない。サウンドはヘヴィーであるが、レミーが言うようにモーターヘッドは3コードを主体としたロックンロールバンドで、私はよりテクニカルなギターソロやツインリードのある曲が好きである。
それでもモーターヘッドの曲は、レミーの生き方をそのまま映し出している。テクニックや流行りにブレることなく、好きなロックンロールを誰より轟音で覚悟を持って演奏し続けている。
時代が過ぎ去り世の中が変わっていこうと、レミーはロックンロールの曲を作り、レコードを出し、ツアーを続けた。ダミ声で歌い、リッケンバッカーのベースにオーバードライブを効かせて轟音を放った。
私は映画や音楽のDVDを処分していったが、どうしてもブックオフに持って行けなかったものの一つが彼のドキュメンタリー映画「極悪レミー」。
映画の中にレミーの暮らすロサンゼルスのアパートが出てくる。ロック界の帝王が住んでいると思えない質素な佇まい。彼にとってはツアーこそが真の棲家。帰るべき家はロックンロール。ロスのアパートはその合間にいる場所。
仮の住処にいる間、彼はサンセット通りにあるレインボーバーに毎日のように通っていたという。そこでコーラのジャックダニエル割りを飲み、マルボロを吸い、備え付けのビデオゲームをいじる。嘘か本当かわからないが、世界で一番喫煙に関して厳しいカルフォルニア州でレインボーバーのレミーだけは例外扱いだったという。
セックス、ドラッグ、アルコール、あまりこのブログで書くネタではないが、彼にまつわるこれらの伝説は列挙にいとまがない。私生活とロックンロールの帝王との境目がない生き方。やりたいことだけやって好きなように生きる。それが作られたポーズではなく真の彼の生態。
レミーを傍に
日々私はどれだけの縛りを自分に課しながら生きているのだろうか。多くの人間は自分を押し殺しながら周りの人の期待するような生き方を選んでしまう。
この私もそうだ。人一倍八方美人で人を傷つけることを恐れる私は、自分の不器用な行動にいつも悩まされ苦しみ続けてきた。
本当は怠け者になりたい。何もしなくてただダラダラと過ごしたい。誰もないところで昼間は過ごし、夜だけ人と話しながら酒を飲みたい。人に教えることなんかしなくて、必要な時だけ人に教えてもらいたい。
そのようなことを思いつつ、それじゃあダメだと自分に言い聞かせて生きてきた。
周りを気にすればするほど、私の行動は一貫性を失っていく。それを修正しようとして、またおかしなことをしてしまう。そんな自分の姿が嫌でしょうがなかった。
私のこのような性格の対極に、レミー・キルミスターのブレない生き方がある。そしてそのような人がいると知ることが私の心のバランスをとってくれる。
私がレミーになれないのはよくわかる。だから私はレミーを感じるのだ。天秤棒の片方の皿に私が座り、もう片方の皿にレミーの姿を想像する。私がグイッと浮かび上がってくる。
レミーが亡くなってもうすぐ10年。今はかつてほど彼の存在に頼らない自分がいる。ブログを続け、学んで行動する中で自己肯定感も上がってきた。周りの目を一旦括弧の中に入れて、自分の直感に従って生きようとしている。
多少の浮き沈みはあるが、今私は人生を楽しみながら生きている。
Born to lose. Live to win. (負け犬として生まれ、勝つために生きる)
私にとって「勝つこと」とは何であるのかまだわからない。しかし、それは他人に対してのことではなく自分の内側の問題であることはわかる。
これからの10年もレミー・キルミスターを心の片隅に置いて生きていきたい。
