ある運動部
神戸三宮のイタリアンレストランで私は白ワインを飲んでいます。男は私一人で、七人の四十路妻に囲まれています。女性たちはかつて少女でした。時が経つにつれて少女は年頃の女性となり、やがて妻となり母親になっていきました。
私が彼女たちと出会ったのは彼女らが15歳の時でした。その時私はまだ20代でした。
初めて勤務した高校で、私は運動部の主顧問を任されました。競技した経験もルールさえもよく知らないスポーツです。教師の働き方改革が叫ばれる現在ではそういうことは少なくなりましたが、当時はよくあることでした。
競技経験者やベテランの先生の希望から部活動の顧問を割り当てていき、誰も持ちたがらない部は何も知らない若い教師、特に学校にやってきたばかりの教師に割り当てられたものでした。
私もその例に漏れなかったわけですが、当時は周りも同じだったのでそんなものだうと思っていました。教師としての力はなく、私は若さだけが取り柄でした。だから一緒に練習をしたり、解説書を読んだり、他の学校の顧問の先生に教えを受けたりしながら競技の勉強を行い、それを部員たちに伝えました。
顧問になって3年が過ぎた頃、多くの部員が辞めたことがありました。ただでさえ扱いが難しい女子高生のことです。嫌だったのは競技なのか先輩なのか私なのかわかりませんが、とにかくこのままだと試合ができない状態にあったのは確かでした。
そのような状態の中、8人の1年生が入部してきました。全員その競技の未経験者でした。残っていた3年生は、何とか最後の試合を戦って引退することができました。部は存続することになりました。
私はこの8人と練習しながら「自分は考えを変えなくてはならない」と思いました。どう変えたよいのかよくわからないけれど、とにかく「相手の目線に立って丁寧に接していこう」と思いました。
勝手な都合で練習を休むことに対し、かつて私は嫌な顔をしていましたが、多少のことは目をつむることにしました。私から見れば「勝手」であっても、高校生にとったら「十分な必然性」のあることもあるのです。
一緒に汗をかいて練習し、円になって話し合い、時にはぜんざいや豚汁を私が作りみんなで食べました。学校の和室を借りて合宿も行いました。
3年間はあっという間に過ぎていきました。
高校を卒業して、彼女たちはそれぞれの道へ進んで行きました。
大人になって
彼女たちが学業を終えて社会人になった頃、一人から連絡がありました。「みんなで同窓会をしたい」というのです。「先生の料理が食べたい」とも言っていました。
だから手狭ではありましたが、私の家に招待しました。彼女たちは私の結婚式にサプライズで来てくれていたので、妻も大歓迎でした。
私は大人になった彼女たちと、お酒を飲みながら近況を報告し合いました。全員しっかりと化粧をして、おしゃれな服を身につけていました。
「大人になったな」と私は感じました。
次に集まった時には何人かが子供を連れてきました。私の息子たちも小さかったので、一緒にはしゃぎ回っていました。泣き出したり昼寝をさせたりする子供もいて、私たちはゆっくりできませんでしたが、それでも楽しい再会でした。
数年に一度、時には後の世代も含めて彼女らは同窓会を開き、その度に私にも声がかかりました。子供達が小さいので、会場はレンタルルームや誰かの家になりました。
今回、久しぶりに彼女たちから連絡がありました。彼女たちの子供達もそこそそ成長し、家を空けて外出できる状態なのでイタリアンレストランで大人だけでの開催でした。
少し遅れて入ったレストランの奥の個室に、大人の女性たちが座っていました。彼女たちは40歳を迎えていました。子供をあやしていた時とは全く違う、落ち着いた雰囲気を纏っていました。
私は彼女たちと会って本当に嬉しく感じました。たった3年間一緒にいただけの8人が(この日一人は海外にいたためLINEでやり取り)、卒業から20年以上経ってもこうして仲良く集まり楽しんでいるのです。自分の教えた生徒たちが、今は離れた街で暮らしていてもこうして定期的に再開することがこの上なく嬉しいと、私は彼女たちに伝えました。
貸方・借方
「若い教師たちに運動部の主顧問をすることを薦めるか」と問われれば、私は「やめた方がいいんじゃない」と答えます。あまりに失う時間と労力が多いからです。
運動部の主顧問をしている間、私は土日を多く潰しました。夏休みに長めの旅行をすることもできませんでした。あちらこちらの指導者に頭を下げてノート何冊分も競技の勉強をしました。審判をしていて怒られたこともあります。自腹で食材を買い、彼女たちのために料理を作りました。さらに、休日や時間外に部活動をしたところで教師には「残業手当」という概念すらありませんでした。
自分が経験した種目ならともかく、未経験種目の部活動の主顧問になることは、ただでさえブラック感の強い教職現場の最たるものだと思います。
今この状態で私が22歳に若返ったとしても、私には無理なことだと思います。私が自分の競技経験ない部活動を受け持ったのは、当時それがよくあることで私自身も「そんなものだろう」と思っていたただそれだけの理由です。
あの時間と労力を他のことに使えたのなら、私の英語やイタリア語はもっと上手くなっていたでしょうし、旅行や読書ももっとできていたと思うことも多々あります。
ただ、今回のようにあどけない15歳だった少女たちが、女性になり、妻になり、若い母親になり、落ち着いた40代になる、そんな成長の姿を見られるのは、若きあの日の私の無知と頑張りのおかげなのかと思うのです。
私は当時名前の一部をニックネームにして彼女たちを呼んでいて、部員間でもそう呼び合っていました。彼女たちが社会人になってもそうしていましたが、今回私は彼女らの名前に「さん」をつけて呼ばずにはいられない気持ちになりました。私は顧問と生徒という関係ではなく、同じ大人として彼女たちと向き合っているように感じました。
私は自分の恩師が言っていた「卒業して大人になってからが本当の人と人との付き合いが始まる」という言葉を思い出しました。彼女たちと会ったことで、私は亡き恩師と久しぶりに対話できた気持ちがしました。
何だかんだと言っても人生は簿記のようで、最終的には借方と貸方が合うようにできているのかと思わずにはいられません。苦労やストレスは多いですが、たった2年半の部活が20年以上続く関係になると思うと高校教師という仕事も捨てたものではありません。ただ、私はあと2年と少しでこの仕事を途中退職しようとしています。
私はそのことを彼女たちに伝え、またの再会を約束しました。次回彼女たちに会う時、私がどのような肩書きをしているのかはわかりません。ただ、彼女たちの50代、そして還暦の姿を見るためにも、その時「また先生を呼んで話がしたい」と思わせるような存在であり続けたいと強く願います。