サ活を始めて半年経ちますが…
青年誌「モーニング」に連載されていた「サ道」を読んだことがきっかけで、約半年前にサ活を始めました。この漫画は単にサウナを描いたものだけではなく、幸せに生きていくための心の持ちようについて書かれていると思ったからです。
このようなブログを書いている私の心は、大抵の時間モヤモヤしています。「サ道」を始めることで、マンガに登場する人物のような心境になれたら、私のモヤモヤもどうにかなるのでは…そう思いました。
「整った」という言葉が作品中よく使われています。著者のタナカカツキ氏が使い始めた言葉で、サウナと水風呂と休憩を繰り返すことで、血流がよくなり、脳に大量の酸素が送られて快楽物質が出た状態を表します。
「整う」素敵な言葉だと思います。あるもべきものが、あるべき状態にあること、とても自然で純粋な状態、そんなイメージを喚起させる言葉です。体の血行が良くなり、新陳代謝が活発となり、古いものと新しいものが入れ替わる。心の中も、滓のように溜まっていたものが流れ出し、何も心配することのない状態、そのような状態を連想させられます。
「サ道」にハマって以来、「整う」ことを期待してサウナに行き続けていますが、いまだにその実感がありません。
一度、これ近いかなと思ったことはありますが、一般的に表現されている”恍惚状態”からは程遠かったです。浴室内を見回すと、確かに、整い椅子に座り、目を閉じて半分口を開けているような人がいます。あの人たちは整っているのでしょうか。サ活を始めたころは、すぐにコツをつかめると思っていたので、最近、本当に整うなんてことがあるのだろうかと思い始めています。
整わない理由は?
世の中ここ数年間サウナブームのようで、サウナに関するホームページも数多くあります。わからないことがあればすぐにネットで検索すると、大抵のことは答えやヒントが出てきます。知の在り方が変わってきています。
大学生の時初めてインターネットを経験しました。そのころは電話回線利用で、動画なんか夢のまた夢、画像も少しづつしか出てきませんでした。疑問があれば図書館や書店に行くか、知ってそうな人に聞くというのが基本でした。今では、まずグーグルで検索です。これからどうなるのか、思考しただけで検索結果が出てくるような時代になるのかもしれません。少し不安です。
ともかく、ネットで調べると「整うために」とか「整わない理由」などが、数多く出てきます。
多くのサウナーが共有することを記すと
- サウナ→水風呂→休憩を繰り返す
- こまめに水分補給を行う
- サウナに入る前、休憩の前は体の水分を拭き取る
- アルコールを飲んだ後は入らない
どのサイトを見ても、これらはサウナに入るにあたっての基本となっているようです。マンガ「サ道」でも触れられていたため、私も最初からこれらは意識しています。そして、整わない理由として次のようなことが挙がっています。
- 水風呂の温度が高すぎる
- 体が芯まで暖まっていない
- 体調が悪い
- 雑念がある
1つずつ考えてみます
・水風呂の温度が高すぎる
サウナーの中で10度を下回る水風呂は”グルシン”(温度表示の桁がシングルということ)と呼ばれ尊ばれているようです。水風呂の温度が低いと整いやすいという理由です。
水風呂は、ただ水道水を入れればいいというわけではなく、チラーという冷却装置を経由して温度が管理されています。サウナにとってチラーは大きな設備投資で、価格は国産高級車が買えるくらいするそうです。レクサスを経由して、あの水風呂の中に水が満たされていく感じでしょうか。
私が今まで体験した水風呂の最高水温は22度でした。プロサウナーに言わせれば「のぼせる」温度ですが、私は気持ちよくつかることができました。水風呂に入り始めて日が浅いためか、この温度でも冷たく感じます。
・体の芯まで暖まっていない
人間は恒温動物のため、本当に体の芯まで暖まったらえらいことになりますが、これは表現ということで。要は十分に体が温まっていないということでしょう。
水風呂+休憩の後は暑さを感じにくいのでサ室にいる時間が長くなります。ドライサウナでだいたい10分から12分間、一番下の列だともう数分長くなります。
周りの人を見ていると、自分は長く入る方だと思います。より発汗させるために、湯船につかった後入ってみたり、ミストサウナと併用したりします。十分体は暖まっていると思うのですが…
・体調が悪い
自分では全くそうは感じません。風邪は年に1度引くかひかないか。持病もなく健康です。本当に感謝です。モヤモヤしている場合じゃないといつも思うのですが、モヤモヤがなかなか離れてくれません。これは心の体調ですね。
体の不調は意識していませんが、構造的な欠陥はわかりません。「整う」は副交感神経・血流・脳への酸素供給が関係しているといわれています。そのどれかに微小にしろ何らかの構造的な欠陥があれば、整いにくいということが考えられるかもしれません。
・雑念がある
これは自信を持って「ある」と言えます。むしろ雑念だらけです。そもそも、このブログを書き始めたのも、サウナで整いたいと思ったのも、雑念から逃れて分相応の幸福感を感じることを目指して始めたことです。
モヤモヤblogは、雑念blogと言い換えてもいいでしょう。ふと一人になった時、心にモヤモヤがやってきます。気持ちを文章にすることで心を整えたいと思い、ブログを書いています。そしてサウナも、「整う」という概念を知り、その境地に達したらモヤモヤを解消する強力な武器になるのではないかと思いました。
しかし、整う→モヤモヤ解消ではなく、モヤモヤ解消→整う、この順番なのかもしれません。これはパラドックスに陥りました。私はどうしたらいいのでしょう。
他のことに意識を向けます
整うからモヤモヤが消えるのかモヤモヤが消えるから整うのか。
ニワトリが先か卵が先か。これと同じ問題で、考えてみてもしょうがないことかもしれません。
整うために、こういったアドバイスもありました。
「サウナ=「整い」という報酬型の思考をやめる」
私たちは資本主義社会にどっぷりと浸かって生きています。あるものの対価として別のものを求める思考方法が頭にこびりついています。時間とお金をかけてサウナに行くのだから、その対価として「整い」があって当然。無意識のうちにそういう思考の流れになっていたのでしょう。
そういえばマンガ「サ道」の中の登場人物、名言さんが言っていました。
「特別な状態を追い求めるな」「サウナを信じるな!」
最近整わなくなったという主人公と偶然さんに対しての言葉です。特別な状態を追い求めるから不満が現れる。サウナで暖まり、水風呂に入って、外気を浴びる、それで心地よさを感じるのならそれで十分ではないかという、示唆に富んだ名言です。
このブログを書いて見えてきたのですが、私は自分や他人が利己的にふるまう時にモヤモヤを感じる傾向があります。利己的まで行かなくとも、消費者としての振る舞いが強調される時も同様です。「金を払っているんだからこれくらいは当然やろ」こんな態度です。
サウナと整う関係に対して、私は自分がなりたくないないタイプの人間となっていたのかもしれません。この辺りは非常に難しいです。なぜなら、現に私は「モヤモヤ解消」を求めてブログを書いているからです。
整いを求めてサ活を行うのではなく、サ活を行っているうちに自然と整う。モヤモヤ解消を求めてブログを書くのではなく、ブログを書いているうちにモヤモヤが消えていく。
こうなるのが理想でしょう。そのためには「~しているうちに」の部分が大切になってきます。心も体も、現時点で行っていることに集中する、今を最大限引き出す能力が求められます。
結局はそこなのか、と思いました。多くの偉大な人物が、過去にとらわれず、未来に煩わされず、今を生きることの大切さについて言葉を残しています。親鸞の説いた「平生業成」も拡大して考えると、死後ではなく生きているうちに人としての業を成せと言うことは、今一瞬の積み重ねを大事にしろ、と言うことになると思います。
たかがサウナやブログですが、幸せのためにすべてはつながっている、そんな気がしています。
モヤモヤ ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 幸せ?
”今を生きる” 頭ではわかります。頭でいちいち考えなくてもよくなるためのトレー人ング、何をすればいい?