2020年1月
こんにちは。そしてあけましておめでとうございます。
大和イタチです。
始めて記事を投稿したのが去年の6月末だったので、ブログを書き始めて半年たったことになります。この間、約60本の記事を書きました。
本来なら、2018年末からブログを書こうと思っていました。ずっと心がモヤモヤしていたから、気持ちを文章に表すことによって整理したいと思っていたのです。平均寿命プラスアルファ生きられる前提で、人生の半ばを過ぎてこんな気持ちのまま後半戦に突入するのは嫌だったので、何とかしないとという焦りからでした。
とにかく、自分の置かれた立場を冷静に考えてみること。すると、今のようにモヤモヤする理由なんか無くなるんじゃないか、そう思いました。自分が恵まれていることなどを書き綴り、目に見える形を残せば自分が幸せであるということに気が付き、自分の現実に合った気持ちになれるのではないか、と考えました。
10年位前にイギリスのW.H.Smithで買った、使っていない大きなルーズリーフがあったので、それに自分の気持ちを書き始めました。2018年末のことです。この分厚いルーズリーフが書き込みでいっぱいになるころには、私の心は整い、分相応の幸福感に包まれることができる、そう思いながらのスタートでした。
「不安に思うこと」「心が震えること」「これからやっておきたいこと」「幸福と仏教について」「立ち飲みの良さ」「バイクに乗る時の喜怒哀楽」「職場で感じること」「語学学習のジレンマ」などなど
時間を見つけては、心に思いつくことを鉛筆やボールペンで書いていきました。160ページあるルーズリーフの4分の1が埋まったころ「このままではダメかもしれない」と思い始めました。
最初の頃は文章表記が多かったノートも、徐々に箇条書きやマインドマップのようになり、文字も荒れてきて見にくいものになっていきました。「どうせ自分一人のことなんだから」そういう心の甘えから、気持ち同様にノートも整わなくなってきたのです。
「マインドマップや箇条書きも、最終的に人が見ても分かる文章に直してこそ意味がある」という当然のことに気が付きました。私たちは言語の枠を超えて物事を考えることができないからです。感情の部分を言葉に切り取り、それを論理的な文章に直し、その文章を読むことでまた感情に新たな変化をもたらすことができる、そう考えました。
そうなれば、できるだけ甘えの少ない、最終的に自分に当てての文章なんだけれど、他者を想定した文章を書く必要を感じ、ブログを書くことにしました。
人に役立つ情報を提供したり、他人の疑問を解決するようなブログではありません。中年のオヤジが一人、心の中のモヤモヤを言語化・文章化し、それを改めて自分で読むことでポジティブな影響を心に与えようと思っている自分勝手なブログです。誰も好んで読むなんてことは想定していません。
しかし、誰かの目に触れる可能性が少しでもあるという事実は、私に緊張感と謙虚さを与えます。悪文でも悪文なりに他人に理解していただけるような表現を考えなければならないし、私の心の汚い部分を出すにしても、他人に与える嫌悪感を常に勘定に入れなくてはなりません。
「思いをすべてぶちまける」、ではなく、「ある程度整った段階で思いを表現する」こちらの方がいいように思います。嫌いな相手に対して罵詈雑言をはいても心はスッキリすることはなく、むしろそういう場面では冷静になった方がよいのと同じです。
このようにして始めたブログですが、半年経過した今、私のモヤモヤは解消されているのでしょうか。
答えは「いいえ」です。
ルーズリーフに書き始めた1年前、ブログを書き始めた半年前と比べても、心のモヤモヤは同じように感じます。ただ、モヤモヤの中でもいくつか心の傾向が分かってきました。
こんな時にモヤモヤ出現傾向です
利己的な行為 自分でも他人でも
自分が一番かわいく、大切にしてほしい存在である、これは誰もが思うことです。だから、自分の利益が最優先になるように行動をすること、これはすべての動物の行動様式の基本であると思います。
しかし、人間が社会性を身に付けるにあたって、このことはジレンマにぶつかります。自分勝手に行動することは短期的に見れば自分にとって有利に働くかもしれませんが、長い視点で見ると必ずしもそうではありません。
大多数の個体が、いつもお腹が満たされていて、確実に子孫を残すことのできる動物は、自然界ではレアだと思います。最強の動物の1つであるライオンや熊も、生き残り、自分の子孫を残すために子殺しをするという事実を知り、利己的であることを一時棚上げし、利他的に振舞うことで生き残る人間の特殊性を感じます。
ゆえに、私は人間が作り出した社会契約説に大いに共感します。高校生講座倫理でホッブスやロックを学んだ時、思わず膝を打ちました。「人間性っていうのは自分の欲望を一度後回しにして考えること起源にしているのでは」そういう風に思いました。
宗教や道徳に精通しているわけではありませんが、おそらく、世界中で、自己犠牲や他人に対する憐憫に価値を持たない文化は無いと思います。そこに、私たちが長い間かけて刷り込まれた「人間性」に対する答えがあると考えるからです。
昨今のニュースを見ていると、人々の上に立つ人たちが利己的に振舞うことが目立っているように感じます。今に始まったことではなく、昔から力のある人はそうだったと思いますが、利己的に振舞うことへの罪悪感、自分が人間性を欠いた振る舞いをしているという意識はあったと思います。
しかしながら、今日では、自分たちだけの利益を追求することが、あたかも権利であり当然のこととして正当化されているような気がするのです。人は弱い生き物で、利己的と利他的な振舞いの中で葛藤します。そして時には自分勝手な行動をしてしまうのですが、そういう時は行動で得た利益と心で感じる罪悪感が相殺される、そんな生き物だと思います。
この歯止めがかからなくなると、人間は動物へ逆戻りしてしまうのではないか、そういう危惧が私の心にモヤモヤを作り出していると思います。
一人勝ちが嫌 自分でも他人でも
上で述べた「利己的な振舞い」と同じ事かもしれませんが、たとえ偶然による結果であっても”Winner takes all.”的な状況は心が晴れません。
25年前にイギリスにいたことがあります。7年前に再訪して「つまらない」と感じたことがありました。
それは、小売店の多様性がなくなってきていたことでした。スーパーマーケットに関して言えば、どこへ行ってもSainsbury’sとTescoが目立っていました。個性的な店が多かった街のハイストリートにも、同じようなチェーン店ばかり目立ちました。
日本でも状況は似たようなものです。いや、もっと酷いかもしれません。中規模以上の地方都市には必ずといっていいほど、郊外にショッピングモールがあり、同じような店舗が入居し、そのモールへ続く道路沿いにも、日本全国どこでも見られる洋服屋さんやドラッグストアやファーストフード店が並んでいます。
一部の強者が、圧倒的多数のその他を駆逐してゆく、そんな一人勝ちの現象が各地で見られます。確かに、強者同士の競争もありますが、同業内の多様性はここ30年間で格段に減少しました。
それはまるで多種多様の植物が見らせた森林が、プランテーションにより単一の植生に変化したようです。多様性の維持は、疫病や環境変化があった時に生物が生き残る担保となっているものです。一人勝ちという現象は、この法則に反するような気がして、その不自然さが、私の気分をすぐれなくさせるのかもしれません。
何もしない時間 時間の経過に対する焦り
語学が代表的な例です。私は英語、イタリア語、台湾語の学習を行っています。毎日継続しないと、能力は落ちていくばかり。そうは言っても、イタリア語や台湾語が日々の生活の中で自然に使える場面はほとんどありません。英語は仕事で使いますが、力を維持するためには自学が必要です。
何もしない時間があると「語学をしないと」というプレッシャーが差し迫り、ゆったりと何も考えずにリラックスすることができません。それならば語学を捨てればよいのですが、今まで積み重ねてきたものを放り投げる勇気もありません。このジレンマ、昨年10月に英検1級とイタリア語検定2級の2020年内の取得を宣言し、一応、悩むことを棚上げにしています。
その他にも、私は時間の経過に関して「焦り・後悔」といったマイナスの感情を抱くことが多いと思います。
「10年前は…20年前は…」「この間~してたと思っていたのに」「~さんが亡くなってもう~年」
気が付いたらこんなことをよく考えています。そして、こういう言葉が浮かんでくるときは大抵モヤモヤしています。
もし私が「今」を100%楽しめていたら、そして、その充実した日々が明日もやってくると信じることができるのなら、このような発想をすることはないと思います。
やはり最大の問題は、私が「今」を生きていないことなのかと思いました。時間の経過に対してマイナスの感情を抱くのは、人間は死すべき運命である、そんなことはずっと昔に分かっているはずなのに、そこへ向かっていることに、もっと言えば、そこへ空虚な気持ちを抱えたまま近付くことに対して恐怖を感じているからなのだと思います。