地図を見ていて感じたこと
私は、幼い頃から地理が好きで、よく地図帳を眺めている子供でした。小学生の頃、世界地図で台湾を眺めていて感じたことを、30年以上経った今でも思い出せます。
- 台湾の「台」の字に東南北を組み合わせた都市があるが台西だけないこと。代わりに台中があること。
- 台南より南に人名のような高雄という街があり、台北と並ぶ大きさの文字で書かれていたこと。
- 島の中心が意外に高く、4000m近い山があったこと。
- 島を囲むように鉄道路線があるのに、南の一部のみ途切れていたこと。
- 台北につけられた首都を表す色が、他の国と比べて微妙に異なったこと。
今もそれほど変わっていませんが、当時の私は種村直樹を愛読する、今で言う「鉄オタ」でした。台湾の地図を見て一番気になったことは、鉄道が島一周繋がっていそうでいないことでした。
「九州だって鹿児島本線と日豊本線で一周できるのに、あの南側はどうしてつながらないのだろう?」
その後高校に入り、新たに手にした地図帳を見ると、あの南側の部分に黒い点線が入っていました。計画か建設中を意味しています。「鉄道で1週できる日が来るんだ」台湾の鉄道に関して何一つ知識はありませんでしたが、列車に乗ってあの島を1周する自分の姿を想像しました。同時に「そんなことが将来本当に起こるのだろうか」ということも。
台北の扱いは相変わらずでした。他国の首都は赤で塗りつぶされているのに、台北は赤の縁取りのみ。巻末にある統計資料の中国の欄には(台湾を除く)という注意書きがありました。
世界史の授業を受けていない私にとって、台湾はなんだかよくわからない場所でした。
祖父の語った台湾人
私の父方の祖父は、体格に恵まれていて人一倍運動能力も高かったそうです。そのため、徴兵検査に合格し訓練を受けると、すぐに戦地へ送られました。大正中旬生まれで、日中戦争から太平洋戦争まで、一番元気な時がピタリと日本苦難の時代と重なっています。
「ワシの青春時代はずっと戦争だった」
祖父がよく語っていた言葉です。祖父は、よく私に青春時代=戦争の話をしてくれました。
・上官に理不尽な理由で何度も殴られ悔しい思いをしたこと。
・食べ物が無くて蛇やカエルを食べたこと。
・風呂上がりのタオルが一瞬で凍るほどの満州の寒さ。
・周りの輸送船が次々に敵の魚雷で沈められ、生きた心地がしなかったこと。
・川へ近づいた戦友がワニに襲われたこと。
・南方の原住民が、わずかなタバコと引き換えに喜んで食料を交換したこと。
断片的な記憶ですが、こうやって書いていると、もう30年以上昔に亡くなった祖父のことを懐かしく思い出します。戦争の話は、いつも祖父から私への一方通行でした。私の父親は、ほとんどそのような話は聞いていません。歳をとり、孫である私に何かを伝えたかったのでしょう。今、彼に会うことができるのなら、何十時間でも聞きたいことがあるのですが。人生には往々にして、気が付いた時には遅すぎるということがあります。
そんな祖父が台湾について私に話をしてくれたことがあります。小学生だった私はその時「高砂族」という言葉を知りました。
台湾には「高砂族」という人たちがいて、その人たちは日本人にはない特殊な力を持っている。例えば、彼らは暗闇の中でも明かりなしで行動することができる。敵軍の倉庫などに接近し食料を調達してくれた。飢えに苦しんでいた時、彼らの持って帰ったアメリカ軍の缶詰の肉が忘れられない。彼らの持つ力に何度も助けられた。
そのような話を聞いたことがありました。「台湾にはどんな人が住んでいるのだろう」台湾の成り立ちをまだ知らなかった私にとって、この国は特殊な能力を持った「高砂族」の国というイメージが出来上がりました。
祖父は亡くなる1年前に台湾へ旅行に行きました。祖父にとって戦争以来初めての海外でした。いつも厳格だった彼が、珍しく柔らかい表情で写真を見せながら旅行の説明をしてくれました。なぜ祖父が台湾へ行こうと思ったのか、彼は戦時中、台湾へ派遣されたことがあったのか、祖父はもとより、4年前に亡くなった祖母にも聞かなかったことを、今、悔やんでいます。
小林よしのり・蔡焜燦・司馬遼太郎
大学生のある時期、私は小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」というマンガをよく読んでいました。今は休刊となりましたが、当時はSAPIOという情報誌がよく売れていて、大学の生協にも置かれていました。私は落合信彦や大前研一の連載を読みたくてその雑誌を買い、そこで「ゴー宣」を知りました。
ゴー宣のシリーズの中で台湾を取り上げたものがあり、それは「台湾論」という単行本になりました。私は、親日的な台湾に好感を持つようになりました。高校時代に世界史を受講していなかった私にとって、この作品は初めて学ぶ台湾史となりました。
台湾論に登場した蔡焜燦という方が本を出したと知り、購入して読んでみました。「台湾人と日本精神」というタイトルでした。台湾に生まれ、終戦まで日本人として生き、その後事業で成功され、日本と台湾の交流に力を入れた方でした。
この本の冒頭で、司馬遼太郎について書かれていた部分がありました。当時、司馬遼太郎は私が最もよく読んでいた作家でした。早速、「街道をゆく台湾編」を買って読んでみました。
小林よしのり・蔡焜燦・司馬遼太郎と、少し偏りはあるかもしれませんが、若き日の私はこれらの人々の作品から台湾のイメージを作り上げていきました。
社会人となってからも、台湾に関する記事やニュースは意識して目にするようにし続けています。それでも、私の中の台湾のイメージは学生の頃に持ったものと、さほど変化していません。
簡単に言うと、多くの記事は安心して読んだり聞いたりすることができるということです。これが中国や韓国の記事になると少し変わってきます。読んだ後、不快な気分になる可能性を先取りして、身構えながら読んでしまうのです。
自分の耳に心地いい意見ばかり聞いていては成長しないと思います。それに、何事も一般化し過ぎると的が外れる部分が広がっていきます。それはわかっていても、親日的な人々の意見には思わず味方してしまいます。
家族での台湾訪問を前にして、いろいろと思い出してみました。
台湾へは過去2度、仕事で訪問したことがあります。
良い印象しかありません。
初めての私的な訪問を前に、この国が私にとって特別な存在になりそうな予感がします。もう、半分以上なりかけているのですが、沼のように引き込まれてしまったらどうしよう、そんな心配込みの予感です。